夕焼けポスト

今夜も眠れそうにないのかい?
胸の中に溜め込んだ、数々の言葉のせいだね。
だったら、君が今思っていることを書いて、ポストに投函してごらん。
陽が落ちる寸前、多摩川の土手に現れる真っ赤なポスト。
それが君の悩みを飲み込む夕焼けポストだよ。

真っ暗になってからじゃ見つからないよ。
道が見えなくなる前にポストを探し出すんだ。
回答は気がついた頃にここに掲示される。
それは 雲間から差し込む光のように君の頬を輝かせることもあれば、
雨の一粒ずつの影を集めたかのように君を陥れることもある。

人生相談は、前向きな回答やヒントを得られる。
そんなふうに思っているのだとしたら、それは君の方が間違っているよ。
世の中には、堕ちていく喜びというものもあるのだから。

そもそも、夕陽が人の足を止めてしまうのは
落ちて、消えてしまうばかりの光芒に美を見るからじゃないか。

さあ、いっしょに堕ちていこう。


ポストからの夕景
 
(2008年7月23日)(宮城県在住・26歳・女・アスキラ)

  この歳になって気付いたのですが、自分には、好きとかおもしろいとか、興味を持てるものがゼロと言っていいほどありません。子供の頃からこれといって取り柄もなく、かなり地味な人生を送っています。趣味は?とか、休みの日は何をしてるの?と聞かれるのがすごく困ります。

 いちを女なのでおしゃれとかは人並みにしますし、職場の人に誘われてお酒を飲みに行ったりもします。ただ、どれもそこまで興味を持てません。 仕事もやりがいがあって生き生きとしているわけでもなく、かといって他にこれがやりたい!と強く思えるものもなく・・・。また、同じように人に対しても興味が持てず、自分から積極的に交友関係を作るということもありません。
 そのため、好きな人もできず、僅かな友達も結婚・出産する中、焦る一方です。
 ただ毎日をなんとなく生きてるだけで、死ぬまでこうなのかと思うと、ため息しか出てきません。
 何かアドバイスをいただけるとうれしいです。
 

 
 (回答)
 
 オリンピックイヤーだから、金メダルって言う字がやたら目につくし、そういうものに向かって一生懸命に生きている人たちが一瞬まぶしく感じられる。
 マスコミでは立派な人が大はやり。
 イチローや松井、松阪はアメリカ人を魅了するぐらい輝いているし、テレビのどのチャンネルをひねっても、感動秘話とか、まばゆい人とか、泣いちゃう人とか、その手の話題で満載だ。

 だから、自分の生活がとても色褪せて感じられる時があるよね。

 なんでぼくは(私は)虹色の情熱をもてないのだろう。
 走って走って倒れるぐらい好きなものがないのだろう。
 ぼくは(私は)欠陥人間?

 でも、人間が生きていくということは「生活していくこと」なんだと思うよ。
 そう長くはない、でも延々と続くこの毎日というものをまっとうに受け止めて、やれることをやり、食えるものを食い、自分なりの地図を作っていくことだと思うよ。
 それ以外にはないんだ。

 最近そう思うの。

 ドリアン助川って名前をどうして捨てちゃったの? ってよく聞かれる。
 浮ついた根性なしみたいに思われているんだなって、相手の語感からバカにされていることがわかる時がある。
 
 それでもいいよ。
 理由のひとつは、適当に食えるようになってしまったドリアンにもう興味を失ったからだ。
 その名前を捨てて、新たな名前で出ていくなんて、狂気の沙汰だって言ってくれた人もいた。
 それはもちろん自分でもわかっていた。

 だって、風あたりが強くなるどころが、忘れられてしまうのがオチだから。
 でも、もしさ、それでも這い上がっていくことができるんだったらどうだ? って自問自答した時がありました。
 きつい日々。それを歩いていくんかいって? どうする? って。

 そう。歩いていくんだよ。
 俺、今、生きてるぞって。

 だから、あなたにお薦めなのは、まず生活のために、生活をできなくしてやることです。
 会社員なの?

 手っ取り早く言ってしまえば、自分はどうしてつまらない性格なんだろうって分析している間に、安定した生活の基盤を葬り捨てること。すなわち、会社をやめたらどうですかってことです。

 あなたは路頭に迷います。
 当たり前に思えていた生活さえ遠くなってしまったことに気付くでしょう。

 極端な話、生きていくことができないかもしれない。
 だったら体を売っちゃおうかなって、そんな考えも頭をかすめるかもしれない。

 でも、そうして生活していくことが、たぶん、あなたにとって「ああ、今、生きている」という実感につながる。

 まあ、これは極論ですが・・・通勤に電車を利用しているのなら、それを使わずに毎日一時間歩くだけでも、生活の「活」の字が変わってきます。

 暑いけど...トライしてみるなら、そういうことからどうぞ。
 本当に一番いいのは、食えなくしてやることですけどね。

 でも、そろそろ食いたい気もするので、今週末発売の「花鯛」(文藝春秋)をよろしくお願いします。

(2008年7月4日)(神奈川県 ウルトラの母)

自分の周りの人たちが、悩んだり悲しんだりしていると、自分が出来ることをしてサポートをしていますが、共感しすぎて困っています。

まるで自分の身に起きたかのように感じてしまい、心が悲鳴を上げるときがあります。

特に自分の家族、身内に何かあると、心が痛いんです。出来る事なら代わってあげたい、でも本人ではないのだから代わる事は出来ない。もう堂々巡りになってしまいます。

もともと感情のアップダウンが激しい方なのかもしれませんが、相手の痛みが自分の痛みのように感じてしまうことがしばしばあります。

明川さんの本「メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか」を読んでも涙涙。
このところ、トマトのリコピン、唐辛子のカプサイシンの力を借りています。
また、出来るだけ1人になったら泣くこと、親しい人とバカッ話をして笑う事でバランスをとっています。

感受性が豊かといえば聞こえはいいのでしょうが、やっぱりあまりに相手の気持ちになりすぎるのは苦しいです。まるで相手の胸に刺さった棘が自分にも刺さっているように感じます。

親身になりつつ、力を貸しつつも自分を保つにはどうしたらいいのでしょうか?

(回答)

幼い頃、「やさしいライオン」というアニメーションを映画館で見ました。
それが見たかったわけではなく、何か東映アニメの大作の付録としてぽんと入っていたんだと思います。
犬に育てられたライオン。
湖面にうつる自分の姿を見て、母と自分は違う生き物だと気付くシーン。
別れ。老いた母犬の死。それでも種別を越えて通い合う心。

あんまり哀しくて、映画館でおいおい泣きました。
で、ふとまわりを見ると、誰も泣いていないのね。
お菓子なんかぼりぼり食いながら、はー、とか溜め息をついている。つまんねえなって。

あ、ぼく、泣き虫なんだって、その時はっきり思いました。

ぼくもまた、無神経なことを言ったりしてしまうことは多々あるタイプで、だから繊細さを装う気持ちは毛頭ないのですが、他人の痛みを感じるという点では、多少その傾向があるかもしれません。

「叫ぶ詩人の会」の頃の詩作や、ラジオの深夜放送の頃の言動も、それがベースになっていたのかな。でも、だからこそ自分までぼろぼろになっていくところがあり、正直言って、幸せ者とは言えなかったわけです。受けてしまうから、痛みを。

でも、それは治らないんだよ。そういう生き物なんだから。

ものの感じ方って、病気じゃないんだから、治癒するとか、変えるとか、そういうことはしない方がいいし、どだいできないことなの。
むしろ、その感性を生かす方向で日々をあらためた方がいいんじゃないかって思います。

感じやすい部分。
ぼくはそれを歌にしたり、物語にしたりして生きています。
ピエロが大好きなのも、存在自体に明暗があるから。
哀しみや傷がないものは信用しないし、見たいとも思わない。

だから、あなたはあなたのままでいいと思うんですよ。
ちょっと損だけどね。
母犬が死んじゃう時、お菓子ぼりぼり食えるやつの方が楽だから。

でも結局のところ、社会でどううまく演じられたかってことより、自分の命の火ときちんと向かい合えたかどうかだと思うんですよ。だめだめ人間だって言われても。

ぼくの場合、痛みのある人、でもそれを口にはしない人と酒を飲むのが好きです。
だからまあ、ピエロみたいな人です。

 
(2008年6月16日)(愛知県・カッツー ラモーン・28歳・男)

 最近、自分のまわりで男友達・女友達ともに結婚ラッシュです。
 一番の親友ももうすぐ結婚。とてもうれしいのですが、すこしさみしくもあります。

 そして、職場・親戚・友人からは「Kくん(僕のこと)は(結婚は)どうなの??」とよく聞かれるようになりました。 しかし、僕自身、5年ほど前にほんの少しだけおつきあいをしたことがあるくらいで、「経験」もなく終わった。

 それくらいで、 「僕は全然結婚なんてのはないなぁ。ひとりで生きていってもいいよ」と、本気なのか自分でもよくわからない答えを返すばかり。

 なんか心が枯れてるんでしょうかね?恋愛・結婚ってなんですか?性欲はあるんですが、恋愛・結婚と性欲との関係はどうあったらいいのですか? とはてなマークばかりが飛び交い、頭も疲れ、恋愛・結婚については何も進まず時間が過ぎゆくばかりです。

 ちなみに、自分は、人を傷つけたり、自分が傷つくのがこわいと思うほうだと思います。
 そして、性欲だけで恋愛にもっていくのは汚い。いいなと思う人が出てきても、僕は性欲だけかもしれないからイカンと思ったりします。

 自分のことは棚にあげて、「高嶺の花」と思われるような女の人をいいなぁと思うことが多いです。
 人の悪いところを見つけよう見つけようとしてしまします。
 ↑こんなの関係ねぇ!!んでしょうか。

 なんかとりとめもなくなってしまいましたが、なにか哲也さんの言葉をいただけるとうれしいです。
 失礼します。


 (回答)

 ぼくらの人生の在り方も、葉っぱの上のてんとう虫の生き方も、実はそう変わらないものだとぼくは思っています。
 ぼくらの場合、社会生活においては「法」というものがありますが、法以前にも社会があり、生活があったように、根本的なところで、ぼくらは生物としておかしくないやり方を心得ていると思えるのです。

 それはもちろん、有史以前から社会は戦争とともにありましたし、征服された民は人扱いされず、あらゆる暴力的欲求のはけ口にされたという暗部をぼくらは持っています。たとえばアルゼンチンにインディオがいないのはスペイン人たちが征服時に皆殺しにしてしまったからで、どんな獣も持っていない残酷性をぼくらは時に発揮します。米軍がやってきたこと、ドイツ軍がやってきたこと、日本軍がやってきたこと、まあ、その他の国の軍隊も含めて・・・それはもう、人間は創造的であるだけに、あらゆる性質をも膨らませていってしまう。原爆の投下はまさにその典型です。

 ただ、それでもぼくらはその狂った季節を乗り越えて、何度もやり直し、生物として生きるに値する環境を模索してきました。あなたがおっしゃる通り、平時ならばたいていの人の心に「人を傷つけたり、自分が傷付くのが恐い」という柱があるからです。これがあったから、ぼくらは同じく自分達の内側から湧き上がる残虐さに何度もやられながらも、今こうして世界に人間として在るわけです。

 大事なことは、これだけですよ。
 故意に人は傷つけない。それを喜ぶような人間にはならない。

 あとは自由に生きていけばいいんだと思いますよ。

 だからてんとう虫と同じなの。てんとう虫は法を意識することはない。てんとう虫はどう生きれば普通であるかなんてこと、どうでもいい。アリマキを見ると興奮する。食えばおいしい。だからいっぱい食っちゃう。異性のてんとう虫が近くにいればやっぱり興奮しちゃう。やれば楽しい。だからいっぱいやっちゃう。こんなにやっちゃったらてんとう虫の普通さから逸脱しちゃうんじゃないかって、そんなことを考えるてんとう虫はいないから、どいつもこいつも葉っぱの上で楽しそうにしているんです。楽しいかどうかわかりませんけれどね。

 あなたも、自由に生きていけばいいんですよ。

 周囲が結婚しても、結婚したくないならしなければいい。
 自分は恋愛の方が興奮する。納得して生きられる。その場合は、生涯をラブハンターとして、スリリングに生きていけばいいのです。いやいや、自分は一人の人間と家庭を持ちたい。そこにじわーっとした味わいを感じられるのなら、家庭を作ればいいのです。

 その選択は、誰かがしていたから自分も、ということではなく、本当に本当に自由なんですよ。

 どうも性欲ばかりがメタセコイアのようにいきりたって困る。困るのか嬉しいのか、いろいろと書き方はあるでしょうが、とりあえず性欲ばかりの自分というのはどうも恥ずかしいなあ・・・と。

 これだっていいんです。在り方としてみんな自由なんですから。
 朝、目覚めとともに発電して抜いても、また会社に行く時にはたくさんのOLを見て興奮してしまう。ああ、どうして俺ってこうなんだろうって泪目になりながら、駅で発電してまた抜いた。ところが会社の昼休みにまた興奮しちゃった。それで会社のトイレで発電してまた抜いて。午後三時にもう一発。さすがにもういいだろうと思い、家に帰ってつい気が弛んでエロサイトを見たら、またメタセコイアになっている。都合何回だよ? と情けない顔になりつつ、また発電。ほとんどゼネレーターのような一日です。

 あなたはきっと今そういう年令なんでしょう。
 でも、それだって自然なんだよね。
 その在り方は否定できないんだよ。

 仮にあなたがですよ。その発電の際に、つまりいよいよって時に、押し入れの二階から飛び下りないと気がすまない人だとして、すると、女性もそういう人じゃないと困るわけです。これは実話ですが、本当にそういう人がいまして、パートナーを探すのに苦労したんです。
 でも、不思議なもので、相手は現れるんですね。
 押し入れの二階からどうやって二人で飛び下りているのかわかりませんが、とにかくゴキゲンな性生活をこの人と相方は手に入れることができた。

 そういうものだと思って自然と生きていけば、たいていの場合はそういうふうになっていくの。
 ところがもし、自分は間違っているかもしれない。セックスしながら一緒に1メートルぐらい飛び降りて下さいなんて、頼めないよなあ。普通(ノーマル)を演じないと・・・なんて自分を鋳型にはめてしまうと、結果的にこの人は不自由な人生を送ることになるのです。そしてそこから魔が生まれてくる。

 男女ともに、百人いれば百人の性欲があり、百種類の嗜好というものがあります。
 相手を傷つけない(お互いに求めあうSMは時にそれを越えますが)精神が自分にあるなら、どんなに変態であろうが、かえってそれに則った方が、結果的にてんとう虫と同じ行動になり、調和の中でうまくまとまっていくのです。人間に於いては、変態もまた自然の一部なわけですから。

 これを無理に押さえ付けようとすると、マグマ溜まりが一気に爆発するように極端な事件を起こしてしまうことがある。

 性欲だけだからイカンなんて自己を否定せず(だから美しい人の悪いところを見つけようなんてネガティブな心の動きをしてしまう)、性欲バンザイ、俺なんか今日手動で17発も抜いちゃったもんね、ワッハッハと明るく生きていって欲しいのです。

 基本的に、あなたは自由です。
 この生と性の人生を満喫してください。
 
 

 
(2008年6月11日)(東京都 Iさん 32才)

 携帯からなので読みにくかったらごめんなさい。寿司ネタの話、読ませて頂きました。
 でも多分、今の私は理解できていないです。

 今週から総務・人事(ほぼ未経験)として新しい会社で働きはじめました。目標はひとつひとつ丁寧な仕事をして、周りの方から信頼される存在になることですが、早速、今月いっぱいで一人立ちするプレッシャーにおし潰されそうです。

 この四年間、他の職種で頑張ってきましたが思うように結果がだせず体調を崩したこともあり、やり遂げたいと思う反面、無理は続かないと弱気な自分が顔を出します。
 「いずれ母になりたいし結婚も」という(今のところ現実感の無い)別の目標に気持が逃げる始末です。

 私には(作業が遅い自覚があるからか)こん詰めてキャパ以上に頑張り電池切れ、という悪い癖もあります。
 一度電池が切れると頭も体も使いものにならなくなり、充電しない限り気合いだけではどうにもなりません。

 元々の精神力と体力が劣っているからなのか、それらの力は人並みなのにこんを詰める為に消耗が激しいからなのか、自分ではわかりません。

 重く考えすぎず、焦らないコツ、教えて頂けませんか?
          

 
 (回答)

 重く考えすぎず、焦らないコツは、重く考えすぎず、焦らないことではないでしょうか。
 いや〜ん、そんな回答やめて、バカバカバカって言われてしまいそうですが、何しろこれは真理です。

 相談内容の最後に答えまで書いて下さったのだから、あなたは優秀な相談者です。

 きっと、あなたは様々な面でずっと優秀だった人ではないのですか。
 あるいは優秀であるべきだ、そうでなければ努力が足りないと自らを叱咤していた。

 どうも、精神のある部分がぽきっと折れて倒れたままになってしまう人は(あなたの表現だと電池切れ)、子供の頃から頑張り屋さんだった人に多く見受けられるような気がします。

 そうですよすね。あなたもきっとそういうタイプです。
 目標、丁寧、プレッシャー、頑張って、無理、自覚、こんを詰める・・・あなたから送られてきた短い文面の中に、痛みを伴いそうなきゅうくつな言葉がぎっしりと並んでいます。文は人、というのはけっこう当たっていることで、普段のあなたの意識の中が、つまりはこういう言葉のオンパレードになっているわけです。

 でも、だからって「頑張らなくてもいいんだよ」「生きているだけでいいんだよ」なんて言われるのは気持ちが悪いですよね。だって、頑張るというのはあなたの性格なんだから、それはもう好き放題に頑張ればいいと思うのです。マグロに向かって「泳がなくてもいいんだよ」って、それじゃマグロは死んじゃうんだから。

 今後もとことん頑張ればいいと思いますよ。

 ただし、心の健康のために「底抜け野郎」として。
 あ、女の人に「野郎」なんて言っちゃってごめんなさい。「底抜けねえちゃん」ですね。

 これはどういう人種かと言いますと、とにかくわーっと頑張る人なのですが、昨日より前のことにはあまり重きを置かない人です。つまり、頑張っても頑張ってもだめなら忘れる人。ある意味で無責任ですよ。仕事の結果にもう何の反応も示さない人ですから。

 たいていの人が落ち込んでしまうのは・・・ちょっと自分の耳が痛い話になりますが、うん、たとえば一年かけて書いた本がまったく売れなかったというケースです。
 これはね、本当に足腰にきます。
 ぼくのようにこの10年で30冊近く書いているのに賞はおろか、書評にも載らない。こういう人間は、何度も何度も起き上がれない日を過ごしているの。悔しいし、空しいし、去っていく編集者に「さもありなん」と思えてしまう自分が情けないし。

 でも、精一杯書いたわけ。
 編集者はいい本だって言ってくれたわけ。
 そう信じて出し続けてだめだったわけ。

 これをくよくよ考えて、どーせ俺は嫌われものだよ、なんてところに落ち着いちゃうと、まあ、もうそれでおしまいですよね。だから、こういう運命の人はさ、「底抜け野郎」になるしかないんだよ。

 だめだったか。じゃ、また明日頑張ろう。
 基本的に袋の底が抜けちゃっているから、世間一般の反省とか、後悔とか、そういう観念が薄いわけです。いや、あるのかもしれないけれど、後ろ向きにいじいじやっているぐらいなら、また一歩笑って踏み出すんだよね。それしかないんだから。

 つまりね。頑張る。
 頑張るんだけれど・・・結果は知らんぞ、という出来の悪さをも平気に自分の一部にしてしまうことです。

 これを心掛けると、重くもならず、焦りもせず、毎日の営みが意外と自分らしくなってくるものです。
 古い言葉ですが、ケ・セラ・セラってこういうことかしらん?
 

 底抜けな人。悪くないと思うよ。
 
 

 
(2008年6月4日)(Aさん 女性)

 11年前に子供たちの父親が出て行ってからは、経済的援助はある程度あるものの、5人の子供を育てるために仕事と育児を無我夢中でやってきました。

 一番下の子が10歳になった三年前、一区切りついたと思い、自分の時間を持つようになりました。

 それからは、家事育児のほかに、やりがいのある介護の仕事のほか、ボランティアやさまざまな社会活動をがんばり、時々は山に登ったり哲也さんの朗読会やライブに行ったりして、それなりに充実したたのしい日々を送っていました。

 ところが、ハプニングが起きました。わたしは、恋に落ちてしまいました。

 今はとても忙しい日々の中で毎週末彼と会っています。そのためにいろいろなことにしわ寄せが来てしまいました。本を読む時間がなくなり社会活動も出られないことが増え子供たちとの時間も減りました。経済的にも交通費や一緒にすごすためのお金などがかかり行き詰まり始めました。

 そんな状況の中、二人で暮らしたいと思う気持ちが強くなってしまいました。もう一度パートナーと呼べる人と温かい家庭を作りたい。

 でも、そのためには今持っているたくさんのことを捨てることになるかもしれない。今いる子供たちとのことも大変な状況になっていくでしょう。

 まだ末娘は中学生なのに。家庭と仕事と活動と趣味でバランスよく充実した生活をしていたのに。なにを考えているのだろう。わたしは冷静さを失って周りが見えなくなっているのではないだろうか。あとで我に返って、失ったものの大きさに呆然とするのではないだろうか。

 迷い道に入り込んでしまいました。
 道が見えなくなる前にポストに投函してみます。 
 よろしくお願いします。
 
 (回答)

 どうも人生相談歴が長くなると、「あの人は正しいことを言おうとする」というイメージが付いてしまうようです。
 これ、人からうとましく思われてしまうことの第一の理由でしょうね。ぼくの日々の中のつらい部分です。
 まあ、今さらそのことに対して抗おうとは思いませんが、ぼくの気持ちの中に正しいとか正しくないとか、そういうものはまったくなく、つまり「それぞれの人生は、それぞれのものでしかない」という観点があるのみです。

 これが正しい人生だ。その人生は正しくない。そんなこと、誰にも言えないと思うんですよ。苦しんでいる人には、それ違っているよ、こっちの方が楽だよと、自分の失敗からものを言うことはありますが、それだって「どうしたらいいんだろう」って途方に暮れている人に対してだけだよね。
 
 そういう意味では、恋なんてもっとも始末に負えないもの。
 これが正しい恋だ。その恋は正しくない。そんなこと、宗教関係の人以外は誰にも言えないと思うんです。

 むしろ恋の炎に身を焦がしてしまえば、バランス感など失うのは当然であって、自分というものが最大までに拡張されていく瞬間でしょう。そうじゃなければ恋とは呼べないもの。

 だから恋は人間が日常生活のルールとして定めた程度のせこい約束事(こういうのは心が魔物になっていない時に決まってしまいますから)なんて目に入らなくなるし、同じことで善悪なんていとも簡単に飲み込んでしまいます。本来の神性と獣性が入り交じった人間の魂というものが、どーんと成層圏まで撃ちあがるわけですね。

 恋をしている時の人間が強いのは、それだけのエネルギー体になっているから。
 恋をしていればたいていの病気は治りますし、喧嘩しても負けません。時には会社の金を横領したり、シベリアまで二人で逃げてみたり、いっしょに死んじゃったり、あるいは詩的衝動にかられてほろほろと泣いてしまったりする。人間の混沌としたパワーが全部出てくるだけの、そういう季節なわけです。

 で、あなたはそれを押さえ付けようとしている。
 でも、ぼくにはそれが不自然なことのように思えます。

 だって、あなたは女手ひとつで五人のお子さんを育てられてきた方でしょう。
 もともとパワーが凄いの。
 どういう外見の方かわからないけれど、中身は横綱クラスです。大関も付けちゃう、露払いとして。
 それだけの人が、「ひょっとしたらこれが人生最後の恋かもしれない」(書いてないけれど、きっとそう思われているんでしょう)という日々に出くわしている。
 それはもう、神もデーモンも入り交じり、あなたの生命が教会の中で、千の鳩と千のコウモリになって羽ばたいて、噛み付きあって、もがき苦しんで、教会そのものを打ち壊そうとしているところなんでしょう。

 だったら、一度その教会はぶち壊した方がいい。
 苦しみながら、泣きながら、子供にみっともないところを見せながら、なまの、生きた女のすべてを赤裸々にしてしまえばいいと思うんです。

 どんな教育よりも、それが真実なんだから。
 そして、それぞれにそれぞれの人生があるのだとしたら、それがあなたの人生なんだから。
 炎のメリーゴーラウンドみたいで、かの名作「風と供に去りぬ」をぼくは思い出しました。

 六人目、行ってみますか。

 
(2008年5月26日)(桑畑 四十郎 京都府 なぜか女性 42才)

 初めまして。
 早速ですが、AND SUN SUI CHIEのライブにも興味大ですが、
 私の毒を飲み込んでください。

 何故、離れて暮らすとその人の良い所しか思い出せず、
 一緒に居ると悪い所ばかり目に付くのでしょうか?

 一緒にいる時は『一生恨んでやるっ!』と思っているのに、
 離れて暮らすと悪い所を思い出したくても思い出せず、
 『ええ人やったなぁ〜。』と鼻の奥がツンとします。

 どんな人でもそう思ってしまいます。
 
 自分なりに色々考えましたが、結局それが人間なんや!とか
 性格やわ〜ではなんだか心の持って行き場所がありません。

 何故なら、一緒に居る時にどうしてもっと良い面を見てあげなかったんだろうと
 後悔でずっと苦しい思いをしているからです。
 哲也さん、宜しくお願いします。


 (回答)

 人の脳みそというのは、ずいぶん手前勝手にできているようでして、過去と未来に関しては甘い香りを充満させる能力を持っているようですね。
 過ぎ去りし日々の記憶。たとえば小学校の頃などを思い出していただくとどうでしょう。空も、葉っぱも、雨もすべてが輝いていて、この世に誕生してまだ十年にも満たない自分を祝福しつつ受け入れてくれたような気がします。
 その頃はきっと、人もみんな愛してくれた。父や母はもちろんのこと、見知らぬおばちゃんも、先生も、友だちも、犬も。

 いーや、そうではなかった。という人もいるとは思いますが、それはたとえば両親が離婚を前にして毎日喧嘩をしていたとか、父親がDVだったとか、トラウマとなる具体的な例があるからでしょう。でも、その部分を除くとどうでしょう。やはりそこには何らかの甘味がただよっているのではないでしょうか。

 子供の頃だって、ひとつひとつ数えていけば過酷なことがあったはずです。
 むしろ一人では生きていけない分だけ、耐えていたことも多いはずなのです。
 それなのにぼくたちはぼんやりと子供の頃のことを思い、「あの頃はよかったなあ」と、まるで自分たちの人生が縁日の綿菓子の屋台から始まっているような気さえ起こします。

 もうひとつ、未来に対して。
 これも同じようなことが言えると思いませんか。
 老いていくことは確実だし、それぞれの苦労の中で干涸びたプルーンのようになっていく自分がいる。
 まあ、単に外見の話ではありますが。

 それでもやはり、未来に対して、明日に対して、ぼくらは何らかの希望を持つように生きる命です。
 問題は抱えつつも、未来はきっといい方向に動いていくだろう。
 実際はそうではないのかもしれないけれど、悲観的に将来を考える人より、まあ何とかなるかと、あやふやな展望でありつつもそこに甘味を感じられるのが人間だと思うのです。

 では、なぜ今現在に関しては嫌なところが見えてしまったり、ひどく切なくて死にたいような気持ちになってしまったりするのか。
 それは、忘却という人生最大の武器が、今この現在に於いては機能していないからです。

 見たものがそのまま入ってくる。だから苦しい。近くにいる人のことも、もちろん自分のことも、五感で伝わるすべてが脳に刻み込まれてしまう。だから本当に「いやになっちゃうん」です。
 もし忘却がなければ、この「いやになっちゃうん」が恐ろしい量で蓄積されていき、おそらく人類は十歳ぐらいでみんな自死してしまうことでしょう。
 他の生き物より巨大な脳を持ち得たことで人類は進化発展をしましたが、その分だけ「いやになっちゃうん」も凄まじい勢いで身体に中に入ってきたわけです。これを背負って生きていくことはできなかった。だから忘却を身につけたのです。遠い日々になればなるほど甘い味付けができるようになったのです。

 未来に関しても同じです。
 たとえば猫は、前頭葉の一部が人間とは異なる作りになっていて、未来というイメージがありません。若干の過去と、今この瞬間だけで猫ちゃんは生きています。未来を予測して辛い気分になるというのは、ほとんどの動物にないんです。
 このあたりのこと、編集者からいただいた本「猫に未来はない」(長田弘著)に書いてありました。

 でも人間はとびきりの脳を持っちゃったから、これから先のことまで考えて辛くなってしまう。
 だからこれも、何となく甘い味付けの機能が備わって、それでやっと生きていけるようになったのね。

 では、現在の苦しみに関してはどうしたらいいのか? というあなたの悩みですが。

 五感で感じてしまうから、「いやになっちゃうん」があるのです。
 感じるのを半分にしたらどうですか?

 すなわち、男と暮らす時は、その男の全部を見ようとしない。
 いいところだけ見て、こいつこういうところがいやだなと思ったら、もうそこは目隠しする。

 そばの食べ方が汚ければ、その男がそばを食う度に顔をしかめるのではなく、もうそばはいっしょに食べないの。
 男の口癖が気になるなら、男といる時間を半分にする。
 そもそも、そんなに愛していない。こいつ、今いっしょにいるだけの友達。

 と、ドライに思いこんでみると、「いい奴かもしれない」という思いがけっこう湧いてくるものです。

 見すぎないこと。求めすぎないこと。いっしょにいすぎないこと。
 これによって、ずいぶんと嫌悪感は薄らぐものです。
 現在に甘いコーティングをしようと思えば、この方法しかありません。

 でもぼくは、お互いの口の臭いを知り合っているような、そういうウエットで救いようのない関係もまた人間らしいと思っています。この場合、愛とともにいばらも踏みますけれど。
 
(2008年5月22日)(納屋橋の男 愛知県 男性 40才)

 趣味で詩を書いている者です。いや、いた者です。自費出版したこともあるほどです。

覚えていないかもしれませんが、哲也さんにもお送りしたことがあります。

でも、もう5年ほどまともに書いていません。

以前は書いた詩をサイトで更新して感想をもらったり、悩みのメールが

送られて来たりしました。

その人達とのやり取りで、書く理由がわからなくったのです。

ノイローゼだという人や睡眠薬を過剰摂取しているという人に

自分なりに一所懸命に返事をしていました。

が、連絡が途絶えたその人のサイトやブログを覗いてみると

私よりずっとまともな人や、ずっと幸せではないのかと思ってしまう人達ばかりでした。

私にほんの一時、愚痴を捨てていったに過ぎないのです。

それが終わると、私はその人達にとって邪魔な忘れたい存在になったのです。

それから、詩を書こうとすると何のためにということが立ちはだかります。

金にもならず、読み捨てられていくだけのゴミのような詩。

私のような素人はどのような気持ちで詩を書けばいいのでしょうか?

 (回答)

  無理して書くことないんじゃないですかねえ。
  たいていの人は、どこかまあ無理があって職場に通っているものですが、こと表現というのは・・・どう?

  絵、写真、小説、エッセイ、彫刻・・・どんなジャンルの表現であろうと、「書く理由がわからない」「何のために」なんて自問自答しているようでは、ろくなものが出てくるはずがありません。それこそゴミのような詩なのではないでしょうか。
  そもそも、創作に身を投じる者はそれしかできないからやっているのであって、ぼくのように人生相談のラジオとかやって小金を稼いでしまった者はそれだけ不純なのです。
  行為に対する意味なんか、あとから考えればいいのであって、絵を描きたいから描く、詩を書きたいから書く、ギターを弾きたいから弾く、路上で踊ってみたいから踊る、というのが理由といえば理由のすべてでしょう。

  どう消したって炎があがってしまう情熱。
  骨まで探っても、自分はこれなんだ、という手触り。
  そういうものがあるから、ぼくもいまだに言葉をつむいで道化なんてまた始めてしまったのです。
  無理してやるぐらいなら、ぼくもやっていないよ。

  それと・・・詩を書くことと、みんなが愚痴だけ言って離れていったからやめたくなった、というそのあたりの関連性がよくわかりません。
  ひょっとしてあなたは、詩というものは素晴らしいもので、それによって人間性が高められ、自分もまた尊敬されるというような図式を頭に描いていたのではないでしょうか。

  おそらくそれは全部間違っていますよ。
  だから苦しくなっちゃうの。

  トイレにひわいな落書きでもするつもりで、言葉を一度ぼろぼろのどろどろに貶めてみてはいかがでしょう。
  愛なんて無理に詠わず、自分を捨てていった者たちへの憎しみを、あらゆる拷問道具を動員して書き連ねてみてはいかがでしょう。
  あなたが今幸せではないということ。幸せな者たちをもう一度不幸のずんどこに陥れてやりたいんだという気持ちを、めらめらと燃え上がりながら不幸のイロハ唄に固め、バヅーカ砲でも撃つようにずんどこずんどこゲリラ戦でもしてみたらいかがでしょう。

  今、四十才?
  その調子で愚痴を言っていると、あっとういう間に四十五才だよ。五十才だよ。六十才だよ。
  自分の落ち込みを人のせいにしてないで、好きなことを過激にやんなよ。
  
(2008年5月14日)(せせらぎさん 神奈川県 男性 26才)

先日ふと、大切な想い出の品を無くしていた事に気が付きました。

そのせいか、胸が苦しく、深呼吸ができません。

こんなことは生まれてきて初めてです。

これから先、どうして生きてゆこうという思いと、世間から変な目で見られるのではという思いが

交錯して、私の心はぬけがらのようです。

このような私に何か良い見方、あるいは具体的な方法でもあれば、哲也さん、教えていただけないでしょうか。
(回答)

 謎が謎を呼ぶご相談ですねえ。
 いったい何をなくされたのでしょう。

 大切な想い出の品・・・それはつまり、大切な人との想い出の品なのでしょうか。かつての彼女(あるいは彼氏)と二人で砂浜を歩いた時に拾ったでかいホラ貝。二人で吹き合いっこしてみて、ブオーッという音の響きに「ぼくたち野武士みたいだねえ」と笑い合った、まさのその想い出のホラ貝。夜もホラ貝が離せず、裸で抱き合いながらブオーッ、ブオーッと鳴らし合っためくるめく倒錯の戦国絵巻。

 あるいは友情の品ですかね。十代の頃というのはたいてい警察に捕まるような悪いことをするものです。自販機の中身を狙うなんて二人に一人はやっていることじゃないでしょうか。でも、もう少し迫力のある奴になると、自販機そのものを狙い出すんですね。自販機をいきなり背負おうとしてそのままつぶれたワルが何人かいました。でも、小さくてつぶれない自販機もあるんです。「明るい家族計画」とタイトルされたものですが、あれはつぶれません。その代わり、警報機が鳴ります。ひょっとして、友情兼肝っ玉試しの一環として奪い取った「明るい家族計画」、あるいは「カーネルサンダース」、ないしは「ケロヨン」とかですか。そういう想い出の品でしょうか。

 うーん。なんだろう。ご両親との想い出の品ですかね。へその緒とか。べろべろに酔っぱらって、それでも酒が足りなくて欲しくて浴びたくて(こういう時があるものです)、コンビニでどんどん酒買ってきて飲んでいる時にですよ、ああ、つまみがないなあって、もうすべてが二重に見えているようなところで、乾きものだと思って食っちゃったという話はよく聞きますよね。そういうアレですかね。

 でも、このどれかに相当する何かを失ったとしてもですよ・・・胸が苦しくて深呼吸ができませんというのはわかるとして、どうして生きていこうとか、世間から変な目で見られるというのがよくわからないんですよ。

 ちなみにぼくは今、どこを探しても免許証が出てこなくて、本当、困っています。
 再交付の手続きをとればいいだけなのですが、過去に二回紛失しているので、今度は三回目です。
 もの凄く怒るのよ、警官が。
 また怒られるのかと思うと、いやだなあと思って。
 警官に怒鳴られている時って、たしかに深呼吸できませんよね。
 でも、どうして生きていこうかって・・・そこまではいかないもんな。

 うーん。
 ひょっとしたらあなたは、小さい頃からずーっと大事にしてきた何らかのイメージ、たとえば「これが自分の笑い方だ」みたいなものをなくしてしまったのではないですか。もっと言ってしまうと、想い出の中にあったあなたの顔。それを失ってしまったのではないですか。

 ある朝鏡を見たら、全然知らない、見ず知らずの顔が目の前にあった。それは自分の顔に違いないのだが、でも、どう考えても自分の顔じゃない。それならわかるんですよ。どうやって生きていこうかなって思うし、自分の顔じゃない顔がついているから、世間が変に思うだろうなと、街を歩くのも嫌になるものです。

 おそらく、人生のうちに何度か経験することです、これは。

 その時、どうしたらいいのか。
 顔のことはとりあえず一度忘れて、何かひとつ新しいことを始めてみるといいよ。
 ゼロから始めること。
 現代書道とか。焼き物とか。クラシックのコンサート行きまくるとか。山登りバリバリやってみるとか。あるいは新しい感じ方で街を歩くとか。

 そうするとある日、少しこの顔にも慣れたかな、という瞬間を迎える時があります。
 実は、ぼくたちはそういうふうにどんどん変化しているのね。うん、違うかな。変化せざるを得ないんだよね。
 街も人も国も世界もね。

 何かひとつ始めることが、その変化に対しての橋頭堡になるよ。
 お互い、そういう意味では、新しい顔を楽しんで受け入れる余裕が欲しいですね。
 それが本当の意味で、生活していくことだったりするのかも。
 

(2008年5月2日)(投稿:広島の青年 27才)

私は広島在住の会社員です。

高校生のときは、毎週ジャンベルジャンを聞いてて、東京に居たときは哲也さんの詩の朗読ライブに数回お邪魔した哲也さん
ファンの者です。

私は、上司との関係で悩んでいます。上司はとにかく気性が荒く、怒ると手がつけられないほどすごい化学反応を見せます。
よく、びんたや足蹴りをされ(もちろん二人っきりの時ですが)、私はびくびく怯えてしまい、手に汗をかき、上司の顔色ばかり
を気にしてしまいます。当然怒られる理由は、仕事に対する意識の低い私にあり、指摘されることについては「そうでした」と、
何も言えません。

次第に「もう上司に怯えるのはやめよう、怯える時間とその労力が無駄だ、その分どうしたら仕事が上手く行くか考えよう」と
自分なりに思う様になりました。びくびくしている人というのは、周りからも卑屈に見えると思います。それも私は嫌なのです。
上司が阿修羅のごとく迫って来ようと、平常心を保てる強い人間になりたいです。

哲也さん、平常心を保てるためのヒントを頂けないでしょうか。

(回答)

リングの上でパンチやキックを浴びせても暴力にはならず、教室や職場でそれをやると犯罪になるのは、なぜだか知っていますか?
リングでは殴る蹴るがあってもそこは双方対等の立場。やられたらやり返すことができます。ボクシングも柔道もレスリングも、すべてこの公平原則にのっとっているからスポーツに成り得ます。

でも、教室はどうでしょう。教師が生徒に暴力を振るう場合、あるいは「やり返さないとわかっている教師」に向けて生徒たちが集団で暴行を加える場合、これは純正な暴力となり、その人間の価値をおとしめることになります。

職場でも同じです。上司が部下に暴行を加えるのは、「こいつはやり返さない。やり返すことができない」とわかっているから。つまり、立場というものを根底に感じながらの行動で、もっともレベルの低い人間行為、すなわち「卑怯者」のやることなのです。

あなたの仕事がどれほど社会的に意義をもっているのか、ぼくにはわかりません。
しかし、卑怯者が上司でいられる構造なら、ましてや毎日あなたがそれを我慢しなければいけないのであれば、やめてしまってもいいのではないでしょうか。

あるいは、やり返しますか。
二十才以降は非暴力で通してきたぼくがこういうことを言うのは大変おかしいことなのですが、あなたが一発お見舞いしてやることによって、逆説的に上司を卑怯者から救い上げることができるのです。立場にのっかって人にひどいことをしてきた上司なのですから、あなたの方から立場を壊すことによって関係を粉砕し、これからはお互いが対等、やるかやられるかだよと暗に伝えてやるのです。

ただし、その腐れ上司は激昂型の人なのでしょうから、一発ですまない恐れもあります。職場中の机がひっくり返るぐらい殴り合いになってしまう可能性もあります。

もちろん、あなたは実際に殴られているわけですから、告訴することも可能です。最近も、大阪府の職員がパワハラで書類送検されましたね。この事件の場合は暴言だけということですから、あなたの例よりも軽いのかもしれません。それでも充分に立件となったわけで、やる時はやるよ、と上司にひとこと言ってもいいのですよ。

いずれにしろ、今後のあなたが爽やかに生きていける方法を選ぶべきです。
あなたの職場がプロレス団体で、あなたがそこに属しているレスラーでもない限り、肉体的暴行を受ける職場というのはあり得ません。

妙にいい子ちゃんになっていないで、辞表を上司に叩き付けてやるか、あるいは向こうずねの二三発も蹴り上げてやめてやるか、そのどちらかですね。あれ、いずれにしろやめるということになってしまいました。

うーん・・・もうひとつ言うならば、これはぼくの体験談ですが、高校時代のぼくはある格闘系球技の選手で、毎日ぶつかりあっておりました。その時はサッカーのキーパーをやっても、夜に空手の道場に通っても、さほど恐怖を感じませんでした。とにかく毎日ぶつかり合っているので、拳固や平手、ましてやキックなど大したことなかったのです。

なので、仕事はやめない、告訴もしない、殴られても平気で居続けるというもっとも過酷な道をあなたが選んだ場合、ごく普通に殴られる、痛めつけられるというスポーツに身を投じる方法があります。たとえばキックボクシングのジムなら、プロの選手はみんな足のすねでバットを折る練習をします。そういうのに慣れてしまうと、上司が平手を張ってきたぐらい、蚊が止まった程度かもしれませんね。

でも、殴られることに慣れていいんだろうか。人としてどうなのだろう。そこが最後までぼくの疑問です。

幾つかの答えを書きました。
あなたの気性にあったものを選んで下さい。

ライブに来てくれてありがとう。
これからもやります。
広島でもやりたいね。

(2008年4月22日)(投稿:Oさん 東京都 30才 女性)

今日の朝、ドアを開けたら、3週間分まとめておいた
新聞紙の束が無くなっていました。
以前にも新聞紙が同様に無くなった事があります。

あの忙しい新聞配達の人が運んでくれるとは思えません。

私の家は2階で、いつも下まで新聞紙を運ぶのが
面倒だと思っているので持っていってくれてよかったと
思うのですが。

でも一応私のお金で購読している新聞
(A新聞)です。
持っていかれると、わたしの新聞紙をかえしてほしいと
おもいます。
もう読まないのに、要らないのに・・・。

また、アパートとはいえ、敷地内に勝手に入って
こられるのは嫌です。怖いです。
いつも私のアパートをチェックしているのかなと
思うと余計に・・・。

こんなふうに思ってしまう私は心が狭いのでしょうか。
どうすればこの恐怖や心の狭さから解放されるでしょう。

(回答)

 今年もまた春がきて、ずいぶんと温かくなり、多摩川や野川の土手では花々が咲き乱れています。つい二ヶ月程前迄、枯れ草以外は何もなかったあの土色の斜面にです。種がもともとそこにあったからだよ、発芽して伸びて花を咲かせただけだと物理的に考える人もいるでしょうが、では、その種は何からできたのか、どうしてそこにあるのか、と考えると、ぼくらは神性という言葉に触れることになってしまいます。

 ただ、ここでは神よりも、空間という言葉で考えていきたいと思います。
 何もないはずの、透明な、風が吹くだけのその空間。
 あらゆるものが生まれ、あらゆるものが去っていくのがこの空間です。

 インド人はゼロを発見したから偉い。
 何もない、という認識を自分のものとした時、それはどれだけの恐怖との対峙だったのだろう、なんて言われます。
 ぼくはそうは思わず、ゼロの発見はある種の幸福感の噴き出し口ではなかったかと思うのです。
 
 なぜなら、ゼロ、何もないというのは、すべてがそこから生まれることの発見でもあっただろうからです。
 X軸とY軸の交差点。これを原点と呼び、ぼくらはそこを中心にして二次元の上での存在を数学してきました。
 三次元でもしかり、時間を交差させるなら四次元でもしかりです。

 すなわち、何もないという点、あるいは何もない空間があるからこそ、あらゆるものが現象としてこの世に現れます。
 逆に言えば、何かがあるように思えるとき、それはすでに現象でしかなく、それ以下でもそれ以上でもありません。
 本当に富んでいるのは、何もない、透明な空間なのです。

 あなたは心が狭いのではありません。
 空間を理解するという意味で、ただ視野が狭かっただけです。

 アパートの二階のドアの前。誰もいない。ただ空間があるだけだ。だから私の古新聞を置いておいてもそこに在り続けるだろう。
 でも、実際は違ったわけです。
 誰かがそこを通った。人。鳩。雀。猫。精霊。植物の種。幸福な風。恨みの風。太陽のエネルギー。月影の癒し。星のささやき。そういったものがすべてそこを通り、そしていつ現象として爆発すべきかその機会を待ちながら、充満し、霧散し、再び去っていったわけです。

 新聞紙はその一環としてなくなったに過ぎません。
 誰が持っていったということより、空間は蠢いている、生まれている、去っている、ということを認識した方が今回は教訓なのでしょう。

 だからね、新聞紙をとっていって欲しくないのであれば、朝まで玄関の内側に入れておけばいいの。

 それよりも、空間の力を見直した方がいい。
 あなたは創作家になりたい人でしたよね。

 クリエイターは、何もないところから手品のように作品を生み出します。
 でも、何もないんじゃないんだ。
 そこには無限の力が眠っている。

 それさえ信じられれば、ストーリーは生まれるよ。
 

(2008年4月9日)(投稿:YNさん 東京都 26才 男性)

ここ数日、「殺すな ひとっこ一人殺すな」という叫びが私の頭の中をぐるんぐるんしています。
チベット・中国関連の件について強い関心を抱いている所為であります。
平素から中国と周辺の民族との関係について憂慮していました。
天安門事件の映像や資料を見て以降、中国という国が恐ろしくなりました。

オリンピックを控えたこの時期にまさかチベット相手に武力行使をするとは思ってもみませんでした。
また個人的な考えですが、チベット相手に行っている文化的侵略も、あと100年も今のような状態が続けば完了してしまうと思います。

ジャンベルジャンが終わって以降悩み事が出来た時は、ラジオを聴き続けたことによって生まれた自分の中にいる
ドリアン助川に相談することで解決をはかっていました。しかし、今抱えてしまった考え事は難しすぎてどうにもなりません。

ロンドン・パリにおいて聖火リレーに対する激しい抗議活動が行われました。
私は今一人で長野の聖火リレーに赴き「殺すな ひとっこ一人殺すな」と叫ぶことが正しいかどうか考えております。

(回答)

国家とは何か。体制とは何か。イデオロギーとは何か。
そのそれぞれについてどれだけ議論を交わしたところで、立つ位置が違えば、本当の意味で言葉が重なり合うことはないでしょう。今、ぼくらが目撃していること。たとえばそれはチベットのラサ市内で起きていることだけではなく・・・そうですね、今はYouTubeがありますから・・・ダライラマに会いたい一心で雪山を縦走するチベット人たちを中国国軍兵士が一人ずつ狙撃していくシーンもぼくらは目撃できます。

雪上に倒れたチベット人の遺体を引きずっていく国軍兵士は、その後で何もなかったようにくつろいでいました。いや、わかりません。そのように見えただけで、内心はひどく平衡を失っていたかもしれません。もし時代と環境が変わってこのことを問いつめられれば、彼は「上からの命令だったから仕方なかった」と答えるでしょう。ベトナム人を虐殺した米兵も、中国に攻め入った日本兵も、もちろん今イラクに進駐している若き米兵たちも、なぜ? と問われれば、「仕方なかった」ということになるのです。

以前、夕刊フジ紙上において、ぼくはコラムの中で「戦争のもっとも恐ろしい部分は、どんな虐殺行為をした兵士であれ、国に帰れば良き父であり、良き兄であることだ」と書きました。これは関東軍の行為をあげながらの記述だったため、実は脅迫状を多数いただくことになったのですが・・・その文面の多くもまた「国のためにやったこと。国が大東亜に平和を築こうとしたのだから」という論調が目立ちました。

つまり・・・いつもそうなのは、兵士にしろ、脅迫状を送ってくる人にしろ、あるいは暴動に乗っかった人間にしろ、その言い分の本流は「自分の意志ではなかったのだ。大きなものに巻き込まれたのだから仕方なかったのだ」という意見です。

個人の放棄がここにあります。
個人であることを放棄した者は、属することしかできないので、国家の意志、体制の主張、イデオロギーの正義に自分を重ねてしまう。早い話が心に制服を着せてしまうのです。
だからこれらの人たちとは、国家の意志が違えば、人間としての言葉もかみ合わなくなってしまうわけです。

では、抗議するとは何か。革命とは何か。という問題ですが、これもまた、そこに人間があるのか、あるいは人間不在の大きな流れに飲み込まれるのか、という点で同じ図式を見せます。

一見、中国の全体制主義にプロテストして聖火に罵声を浴びせることは、人間としての正義であるようにも映ります。
しかし、もしも人間が革命を起こそうとするなら、まず変わらなければいけないのはその個人だとぼくは思うのです。
なぜなら、革命もまたそれが社会的に動きになった時、個人をつぶして巻き込んでいく魔性を帯びてくるからです。そしてあなたの今のお悩みは「人間としてどう反応するべきなのか」という部分にあるからです。

とらわれずに立ち、あなたの意志を遂行するためには、それがどう見えるか、どんな反応を引き起こすかということより、あなた自身の内部で革命があったのかどうか・・・ということが一番の問題になるのだとぼくは思います。

たとえば、「殺すな」と叫び続け、それに疲弊してしまった人間なら、誰とも会わず、静かにチベット関係の書物を読みふけることが革命です。たとえば、これまで一切世間に対して波風を立てず、いい子ちゃんできた人間なら、聖火に並走してFREE TIBETの旗をあげることが革命です。たとえば、これまで工夫のない生活をただひたすら耐えてきたなあという人間なら、ここで世界のどの抗議者もやっていない行為、「抑圧されている者たちへの聖火百本」を聖火とともに走らせることが革命です。たとえば、これまでオリンピックを一度も見逃したことがないという人間なら、今回の北京オリンピックは見ないと決心することが革命です。

個人が変わらずに、言葉だけをそこに添えても、それは何ら社会に波紋を投げ掛けないどころか、あなた自身も気味の悪い虚空に彷徨い込むことになります。

悩みや迷いは、人間が人間になっていくことの起点です。属する結論を持つことではない。

一人の人間としての方法をよく考えることです。
その方法はあなたにとって、革命足り得るのか?

 

 

 

(2008年4月4日)(投稿:Kさん 東京都 女性)

もうすぐ5歳になる甥っ子のことで相談です。

離れて暮しているので頻繁には会えないのですが、とても私になついています。
会うと必ず「ちちーっ」と叫んで、私の乳をつかみにきます。

新宿駅のホームだろうと渋谷のハチ公前だろうと、ひとのからだによじ登り胸に触ろうとします。
一応まだ羞恥心がありますので、「やめてやめて」と逃げ回るのですが、彼は執拗に下着の中に手を突っ込んできます。
母と妹(甥にとっての祖母と母親)は、「子供なんだから触らせてやんなさい」と言います。

甥は赤ん坊の延長でおっぱいを求めているのでしょうか。
それともすでに彼のヰタセクスアリスがはじまっているのでしょうか。
今後、伯母として私はどのような態度をとればいいのでしょう。

息子もおらず、男兄弟もいないので男の子のことがさっぱりわかりません。
哲也さん教えてください。
ちなみに決して立派な胸ではありません。

(堕ちてゆく予感にあふれた回答)

ほぼすべての男性に共通して言えることですが・・・
(これはある季節の女性には好意をもって迎えられることでしょう。しかしその季節はとても短く、つまり生涯の大部分において、女性が男性一般を「くだらない」「けもの」「ふっ」と見なしてしまうことの理由のひとつになります)

我々は無条件でおっぱいが好きです。

どのぐらい好きかというと、「女はいいなあ。好きな時にいつでもおっぱいに触れて」といい歳をした一部上場係長ですらふと思うほど好きなのです。

あの仏陀でさえ、もっとも本人の弁に近いのではないかと言われている経典の中で「おっぱいがそんなにいいのか。見誤るなよと、修行僧たちに警告を発しています。つまりそれだけ、仏陀も成道前はおっぱいに惹かれました。

  手淫を憶える頃、たいていの男の子は自分の平たい胸部にも触れます。腹の方から肉を集めてきて、それを机の角などで無理やりためこみ、若干のおっぱいらしきものを作ってハラヒレ触ったりします。「ああ、恭子ちゃんのおっぱいってこんなふうだろうか」・・・そんなふうに思っただけで若い男性自身は多摩川土手のつくしんぼのように春爛漫となり、ついでに頭の芯にアンドロメダからの電波が届き、ああああーっ、ということになるのです。

 しかし当然のことながら、恭子ちゃんのおっぱいではない自分の肉を触ってイッテしまったみじめな十三才という思いは残るわけです。だからこそよけいにおっぱいが恋しくなる。本物に触れてみたい。そこに顔を埋めてみたい。舌を這わせてみたい。できれば親指トムになって一昼夜そこで過ごしてみたいという(これは実に晩年のニーチェや川端康成ですら希望したことです。別に偉人の名ばかり出すのは自分に自信がないというわけではありませんが)・・・いわば女性からしてみれば「変態じゃん、あいつ」という思いでいっぱいになるのです。

そうです。
そのような意味においては、我々はみな・・・変態です。我々サイドの性は季節として常に春爛漫なため、妄想だけでもかなりのエネルギーを消費しています。だから総エネルギーは常にピンハネされ、平均寿命は男の方が短いのです。

正直に申し上げましょう。
普通、男は電車内でおっぱいをもみもみしている痴漢を見つければ首根っこをひっとらえてホームに引きずり出し、パンチの2、3発も入れて「二度とやるなよ」とその男のケツを蹴飛ばしてやることでしょう。

まず、ひっとらえた理由ですが、これは当然女性への憧憬と尊敬です。
女の子が嫌がることをやりやがって。もちろんその怒りは心の底からあります。86パーセントまではこれです。

男に生まれて良かったこと。それは女を愛せることです。
だからその女に不快感を与えている男を許せない。パンチもキックもそのためのものです。粗暴をお許し下さい。
我々はその存在自体がくだらないと言われようが、根本に於いては騎士なのです。

しかし、残りの14パーセントに関していいますと

俺もおっぱい触りたいんだよ。我慢しているんだよ。なのに何なんだ、お前!
という怒りなのです。
違う、という男がいたら、抗議を受け付けますが、おそらくその抗議内容はおもにパーセンテージの配分の問題かと思われます。それと、俺はそういうインチキな男が嫌い。

あ、でも・・・これをお読みの女性はぼくに対しても怒りがあるかと思います。あるでしょうね。

痴漢をなんで逃がしちゃうのよ。なんで警察に引き渡さないのよ。
ごもっともです。そいつが常習犯ならその選択肢もあります。
しかしもしも、こいつ出来心だろうな、おっぱい泣くほど触りたかったんだろうなと、その切実なる思いがひしと伝わってきた場合・・・パンチとキックで充分じゃないですか、お姉さん。こいつの人生、これで終わりにしちゃっていいんですか。と言ってしまっているような気もするのです。

そういう意味で、ぼくは・・・いつまでたっても正義にはなれません。
なれないんだよ。なる気もないんだよ。

ともかく、いずれにしろ、おっぱいは最強です。その軍門に下った我々は、お姉さんたちにことの判断を任せるしかありません。

さて・・・あなたのお悩みですが・・・その甥っ子がすでに性欲に目覚めての行動なのかどうか、という部分ですよね。
甥っ子が触ってくる時、どんな手の形をしていますか。
そして、おっぱいのどの部分をまさぐってくるのでしょうか。
おっぱいの突起、これを探し当てようと指の腹をすべらせているのでしょうか。
その突起を探し当てた上で、つねったり、弾いたり、意志の宿った指先の遊戯というものになっているでしょうか。

だとしとら、あなたの甥っ子は、甥っ子の着ぐるみを着た「すでにいやらしい男」です。
でも、もっといやらしいのは、突起すらまさぐらなくなった時ですね。
おっぱいの両端、脇の間からの膨らみ、このあたりを執拗に攻めてくるようであれば

あなたの甥っ子は、甥っ子の着ぐるみを着た四十五才です。ご用心を。

とはいえ・・・わかっていただきたいのは、男の子は生まれた時から墓場までおっぱいに恋しているということ。
女性が木であれば我々は宿り木みたいなものです。
それを理解した上で、触らせるもよし、頭を引っ叩いてやるもよしです。それは自由なのです。

ちなみに、おっぱいの大きさは男の視点から、ということであれば、これは価値観としてさほど関係がありません。
貧乳と嘆かれている方、それはあまり影響のないことですよ。全然関係ないっちゅうか。
気持ちとしてそれがおっぱいであれば、我々にとってもそれは充分過ぎるおっぱいなのです。

とりとめがなくなりそうですので、このあたりで。
批判、覚悟しています。

夕陽新聞相談室(2008年3月22日)(投稿:Cさん 東京都 女性)

ここのところ、といってもたまになんですが、新宿ゴールデン街のとある喫茶店に行くんです。
そのお店に行く途中にある、毎回気になっているお店。

「サーヤ」

紀宮さまと何か関係があるお店なのでしょうか?
一度勇気を出してドアを開けてのぞいて逃げたことがあるのですが、ダウンジャケットの男性が振り向きもせず、微動だにせず、ポツンと佇んでいるのみでした。。。 怖ひ

誰に話したらいいのかわらかず、かといって夕陽新聞相談室に聞ける類でもなく、疑問はもうもうと湯気を立てるばかりです。
泣き虫てっちゃんと呼ばれているテツヤ氏にしかメールできませんでした。

(回答)

 お悩みなのかどうかわかりませんが、夕陽新聞相談室に聞ける類でもなく・・・と、わざわざことわっているところからして、本当は聞きたいのだろうと思い、ここに掲示いたします。

 だって、人心ってそういうものですよね。
 甘い物を食べたいなあと思っている人に限って、「私もう甘い物食べるのやめるんだあ」と誰にも聞かれていないのにぽそっとつぶやいたりして。二度とお前とは組みたくないよと思っている人に限って、「また何かの折に楽しいことやりましょうよ」なんて言ってみたり。

 そのような類推をあなたの行動にもあてはめるなら、夢遊病的に「サーヤ」のドアを開けている段階で、すでにあなたの足は新宿ゴールデン街の魔手に絡めとられています。もうあなたはあなたであって、あなたではない。ちょいと遊びのつもりで一軒二軒のドアを開けてしまうと、そして中に入ってしまうと、気がついた時には・・・ああ・・・ゴールデン街がないと生きていけない身体になっているということに愕然とするのです。

 もう堅気(かたぎ)じゃない。
 もうあなたは堅気じゃない。
 もう・・・あなたは・・・かた〜ぎ〜じゃない。

 一種の呪いみたいなものですかね。
 あの街に足を踏み入れてしまったがために、人生の栄光を粉みじんにしてしまった人たちが、ボクの知っている限りでも三百八十人ほどいます。そして何を隠そう・・・ボクもそのうちの独りなのです。

 おそらくこの二十余年で、あの街に投資した金額を考えるならば、昭島のはずれあたりに一戸建てが買えたはずです。
 そして失った膨大な時間。その時間のすべてを執筆に当てていたなら、山岡荘八ばりの長編が書けていたはずです。
 いや、もっと恐ろしいのは、破壊された脳細胞の数でしょう。
 中三までは非常に成績の良かったボクです。それがあなた、15で酒を覚えたばかりに・・・上京してあそこに入り込んでしまったがために・・・おそらくボクの脳はアルコールのためにばふばふにすが入っているはずです。カマドウマとか住んでいるかも。

 それでもゴールデン街を断たなかったのは、まあ、失ったものと同じぐらいの魅力があそこにはあったからなんですけれどね。

 「サーヤ」 もちろん知っていますよ。ボクのボトルも入っています。麦焼酎ですけれど。
 夕方4時半からやっていますので、ゴールデン街では口開けが一番早いかな。
 夏なんて、まだ真っ昼間でしょう、その時間は。
 だからね、日光が厳しいなあと思ったら、サーヤですね。旧式のクーラーががたがた音を立てていて、ビールを自分で冷蔵庫から出して、で、2、3本あけて・・・それから店主が現れるのを待つ。サンペイストアに買い物に行っている事が多いんで。
 
 サーヤさんは、あのサーヤさんに似てなくもないですが、とりあえずあのサーヤさんに30才ぐらい足して下さい。青森の人です。青森のお母さんが作っては送ってくる煮豆とか筋子とか、そういうので飲むのね。お客さんは写真家が多いです。

 サーヤの店は、昔は「安愚楽(あぐら)」という名前でした。シンペイさんという切れ者のおじさんがやっていた。
 ボクは19才で、上京してすぐにこの街を目指しました。
 とにかくここに行って、映画関係や文学関係や芝居関係の人と酔って喧嘩しないといけないと思っていた。

 それで、場所がわからないので二丁目のマンモス交番に行って、聞いたんですね。ゴールデン街ってどこですかって。
 若い警官が教えてくれてそれからうろうろと行ったのですが・・・とにかくその頃のゴールデン街というのは活況を呈していまして、通りにまで椅子を出してみんなが酔っぱらっている状態。その間をオカマがぞろぞろ歩いているわ、キャッチはいるわで、一人ではとても入ることができなかった。

 本屋さんに行って聞きましたよ。
 「新宿ゴールデン街マップ」ってありますか?
 本屋さんのお兄さんが「そういうものはありません」と。で、田舎者だったんでしょうね。実は・・・と切り出したのです。この街で酔うために上京したようなものですと。

 そしたらお兄さんが「安愚楽」という店なら知っているな。あそこはボラなかった。

 このボラなかった、というのが効きました。そんなにお金もっていなかったし。

 それで、「頼もう」って感じでドアを開けたら、誰もいないの。バーの中。
 仕方が無いから待ちました。
 やっぱり、サンペイストアに買い物に行っていたんですね。店主が。

 その店主はドアを開けてボクがいることに気がついて、「誰だ、お前!」といきなり凄い形相でして・・・「いえ、あの、客ですけれど」と言うと、「客なら客って言えよ」って。もうおしっこちびりそうでした。

 ああああ・・・シンペイさんに教えてもらったこと。
 ジャニス・ジョプリン。
 みんなで祝っているようなシーンには必ず罠が潜んでいるということ。
 ボクはアホであるということ。

 ひどい店主でした。
 五、六回行ったら、お前なんかもうくるなと首根っこを掴まれ、違う店に連れていかれた。これが「サーヤ」と同じ通りにある「NANA」です。そしてこの日から、ボクの本格的なゴールデン街ライフが口火を切ることになりました。まさか「NANA」のカウンターにバイトで入ることになるとは思わなかったなあ。

 と、昔話のように口が緩んでいますが・・・基本的には今でも現役です。
 ゴールデン街で出会った時には声をおかけ下さい。

 「サーヤ」は安全で、気だてのいいお店ですよ。

夕陽新聞相談室(2008年3月15日)(投稿:HN雑草魂 27才 男性)

1発叫ばせて下さい。長引く不況の煽りを受けて、失業を繰り返し貯金ゼロで在るのは借金だけ。

何とかかんとか生き延びる為派遣の仕事で食い繋いで居ますが・・いつクビになるか解らない非常に不安定な契約。

毎日残業や休出しても給料月15万。毎月赤字で前借りしないと生活できない状態で給料日に手元に残るのは

僅かに8万円弱。もうコレ以上の借金は増やせませんし、いま職を失ったら後がなくネットカフェ難民1歩手前です。

いんきんたむしも患っており、保険は在っても医者にかかる御金がなく、市販の薬はちっとも効かないし、毎晩痒くて眠れません。

アレがしたい!コレが欲しい! なんてそんな贅沢な事は言いませんが・・。

必要なものに御金がかけられない、なんとも言い様のない窮屈さ。

1日も早く今の状況から脱却したいんですが・・。

車もなく引っ越す御金もないので働く範囲も限られてしまい、中々思う様に求人が見付かりません。

でも、笑える日は必ず来る・・って信じて居たいんで。

(ハタ坊のおでん)

ぼくは絶対に負けません!! 弱音を吐いてごめんなさいですが

1言エ−ル戴けたら幸いです。

(回答)

借金。前借り。食いつなぐ生活。ネットカフェ難民。いんきんたむし。
こうして並べると壮絶な気もしますが、よくよく 考えてみると・・・27才としては、ごくごく普通の暮らしぶりではないでしょうか。

時代が時代だけに、IT長者の若者とかが邪魔臭くのさばり世の中を不安に陥れています。しかし、27才というのはあなた、そんなものですよ。若いのに金を持っている奴の方がよっぽどおかしいんだから。労働等分以上のお金を持っているということは、そいつはズルして生きているわけです。そんな奴ら、放っておけばぎとぎと顔のさもしい中年になっていくだけです。放っておきなさい。

って、そういうお悩みではありませんね。
ほとんどの不幸感は比較から始まるので、ついついあなたが周囲に気を取られて身を嘆いているのだと思ってしまいました。
だって、8万円弱の手取りがあるなら、生きていく方法は幾らでもあるから。

こういうの、定番の自慢話になってしまうのですが・・・
ボクなどその頃は、電気ガス水道、必ず何かが止まっていましたよ。電話などは始終置物でしかなかったので、つながっている時は本当に嬉しかった。ハローって言うと、向こうもハローって言う。あなたが好きって言うと、向こうも死ぬほど好きって言う。まさに恋のダイヤル6700なわけで、電灯がともる、ガス栓をひねると臭い、用を足しても水で流せる。こういうことのひとつひとつが新鮮で、とにかく文明というものを感じました。

いつもつながっている人には、この喜びがわからないんですよ。

参考までに話しておきますと、電気ガス水道のすべてが止まった時は、缶カラに立てた亀山ローソクが灯り代わり、ガスは無いものだと思いこむと何の問題もなし、水道は・・・つまり、困るのはトイレなのですが、これは公園の公衆トイレまで走ればいいだけです。飲み水は駐車場のゴムホースをくわえていました。

この完璧な三点責めが起きたのは、正確に言うと25才の夏だったような気もしますが、今でも鮮明に覚えているということは、人生の中でも特筆すべき味わいの濃い日々だったわけです。ボクはそういうところに幸福感を覚えます。
ついでに言っておきますと、この時は、ボクの部屋の真下から漏水し、ある時帰ってみると、人夫のおっちゃんたちが勝手に部屋に大穴を開けていました。

帰ってみると、部屋が工事現場になっている。

玄関からひしゃげたベッドまでは板が渡されて歩けるようになっていました。
「いやー、わりいね。お宅の部屋の下で水道管が割れちゃったみたいで・・・。隣りの学生さん、水道代が月6万になっちゃってさあ、調べたら、お宅の下だったのよ」って。
そう言われても、起きていることの現実性というものが、しばらくは飲み込めませんでした。

新宿のアパートだったのに、部屋にいながらキャンプ暮らし。と思っていたら、部屋にいながら工事現場暮らしになってしまったのです。

でも、ほら、やっぱりこうやって鮮明に覚えている。泥水の匂いまで記憶しているということは、それはもう幸せなことなわけです。

あなたは今苦しいかもしれないが、少なくとも毎月の軍資金が8万円近くあるわけです。
その8万円でできることを色々と考えてごらんよ。

つまり、今のあなたに問題があるとすれば、自分は裕福ではないということで、すべて受け身の防戦体勢になっている点です。状況がどうであろうと、それを最大限に生かして楽しんで日々を送っていく。

わかりやすく言いますと、貪欲に攻撃しろ、ということです。

古本屋で、「食べられる野草」という本を買いなさい。あの本、今なら百円ぐらいです。あの一冊があれば、公園の草むらにも川の土手にも、実はベジタブルがたくさん生えているということに気付くはずです。あとはお米を炊いて豆腐を食べていれば、月の食費は一万円ぐらいで抑えられます。

そして空いた時間は本を読む。
忙しくなると、本を読む時間が削られるのが一番辛いです。
今のあなたは妙な動きをするとお金が出ていっちゃうばかりでしょう。
だったら今年は腰を落ち着けて本を読む。

何かのジャンル・・・フランス史でもベトナム史でも好きなだけ図書館で読む。知らない漢字や言葉があったら全部覚えていく。図書館で借りる分にはただなんだから、こういう時にじゃんじゃん利用しないと。

それから、身体を鍛えるためにジムです。ジムは金がかかるだろうって? 自分でやればかからないの。
ちなみにボクは今でも毎日腹筋160回、腕立て伏せ20回(腕立ては昔からコンプレックスがある)をやっていますが、事務所のダンボールの上でやっているので、ただです。

この一年、こうして野草三昧、読書三昧、ジム三昧で乗り切れば、確実に借金の何割かを返せるよ。しかもあなたの頭脳はと身体は磨かれ、いい男になって出直せるかもしれない。

貧乏って、ちっとも嘆くべきことではないんだよ。
その状況だからこそできることもたくさんあるの。
あなたはいつだって宝の山を目の前にしているんだよ。

頑張って、楽しんで!

夕陽新聞相談室(2008年3月8日)(投稿:兵庫県 mさん 25才)

初めまして。こんにちは。去年の春、関西の大学院を卒業して、派遣会社の営業として働いています。

今年で一人暮らし8年目です。親からも経済的に自立して、やっと手に入れた自由。

ずっと自由になりたいと思っていたのに、自由になったいま、なぜか途方に暮れています。

だれにも必要とされず、何がしたいのかもわからず、呆然として、それでも日々は過ぎ去っていって。

好きな人がいます。けれど、その人は札幌にいて、なかなか会うことができません。

世界でいちばん大切な人やから、世界でいちばん幸せになってほしい。
そのためにじぶんにできることは何だろう、って考えるのですが、北海道と関西ではあまりにも距離がありすぎて、なんにもできません。それがとてもかなしいです。

「人間として最も大切な何かが欠落している」そんな気がしています。
このまま消えてなくなってしまいたい・・・なんて思いながら
青い空を見上げたりしてしまいます。

いつまでたっても宙ぶらりんです。

どうすれば、地に足をつけて力強く歩んでいくことができるのでしょうか。

(回答)

 人間の最大の幸福とは何だろうと考える時に・・・
 それはひょっとすると、あなたがおっしゃる通りに「地に足をつけて力強く歩んでいる、生きている」実感なのかもしれないと考えることがあります。

 今日俺は生きている。今日私は生きている。今日アタイは生きている。

 朝の光に始まって、昼前の爽やかな風、ゴミ箱をあさっているカラスの鳴き声、灯油屋のトラックが町内一周で流す「アラウンド・ザ・ワールド」、隣りの家から漂ってくるカレーの匂い、大して意味のないことを喋っているラジオに耳を傾けるひととき・・・そんな時間の中にあっても確実に感じられる、今、まさに俺は生きている。

 この「生きている」感があるのなら、不運だと感じた様々な現象も、底が見えている銀行の預金残高も、産廃としてゴミに出すしかない自主制作CDの山も、そんなに大きな悩みごとにはなりません。それらはいちいちの表層現象であって、本質であるところの生きている我々が「生きている」以上、ドアを開ける度にぶつかる隣りの奥さんの自転車程度の問題でしかないのです。

 ところが、この「生きている」という感覚。
 人生最大の幸福であるがために、与えられるのはそれが終焉に近付いてからに限られるという、非常に皮肉な運命にあります。桶に並べられた寿司と一緒です。好きなものから食べる人もいますが、たいていの人は好きなものは最後にとっておく。たとえば私であれば、卵焼き、ハマチ、アカガイ、タイ、マグロ(赤身)、コハダ、アナゴ、マグロ(中トロ)、イクラ、ウニの順になりますが、その逆は絶対にあり得ません。

 人生の喜びの中で、この「ウニ」の部分に相当するのが、「ああ、俺は今、生きている」感なのね。
 意識していることは意識しているのだけれど、他の寿司がどんどんなくなっていく中で、いよいよ桶で光り出すイクラとウニ。そういう風に考えてもらったらええんじゃないでしょうか。

 若い肉体。こんなものは卵焼きと一緒で最初にぱっと消えてなくなります。
 豪華な暮らし。こんなものもハマチ程度でしょう。
 ロマンス・・・これはなかなか大事で、ひょっとするとマグロの中トロぐらいの位置を占めるかもしれません。
 で、かなり失いたくないのが健康。
 足腰が弱くなってくる。目が霞んでくる。耳が遠くなる。臓物のひとつやふたつは手術で取っちゃっている。

 この段階に来て、初めてわかるのです。
 ああ、最後に残った幸福はこれだったか。
 俺は(私は)、今、生きている。
 太陽の光よ、ありがとう。風よ、ありがとう。ぷりぷりお尻を振りながら前を歩いてくれたOL風お姉さんありがとう。もうとうの昔に性欲は失っちゃったけれどさあ。

 そしてウニを食べる。
 あとにはガリのかけらだけが残っている寿司桶。
 ふっと息をつき、熱い番茶をすすりながら、「やり終えたな」と思うのです。

 人生はゼロ歳から始まるものではないのかもしれません。
 寿司をひとつふたつ味わってからです。

 だとすると、遠距離恋愛の辛さも、自由に対する漠然とした不安も、あなた自身の消えてなくなりたい感じも、すべてまだイクラやウニに到達するまでの、そのずっと前の・・・何だろう、シャコやミルガイですよ。ひとつひとつの不安も、ゆっくりしっかり味わって楽しまれたらいいのだろうと思います。

 急がずに、今日の日を(今つまんだ寿司を)大事に味わうことです。
 
夕陽新聞相談室(2008年3月1日)(投稿:東京都 NHさん)

今日は、始発電車に乗って、奈良へ行って参ります。
「電車の中で食べて」と、母から焼き芋を持たされました。新幹線の中で、焼き芋を頬張るなんて、なんとなく恥ずかしくて悩んでしまいました。

(回答)

 乙女心がわからないわけではありませんが、三つの点であなたは間違っています。
 
  まず最初に、焼き芋を頬張ることは恥ずかしい、つまり焼き芋は下賎な食べ物だと思いこんでいること。
 値段をよく考えてみて下さい。夕陽新聞社のあるつつじヶ丘だって、99円ショップ以外ではいまだに高値です。99円ショップの焼き芋はさらし者に成り過ぎていてひどくひからびていたり、逆に生焼けでガリッと芯があり、一度食い込んだ歯がなかなか抜けなかったりと安っぽいドラマに溢れていますが、たとえば駅前のロータリーに夜11時から現れる軽トラックの焼き芋屋ですよ。あそこは100グラム百円で計算しますから、手頃なやつを一本買うとごく普通に五、六百円請求されてしまいます。

 でもね、 あの軽トラックの焼き芋。銘柄もよくわからないただの芋なのに、やはりほくほくと上品で、嫌みのない甘さが広がり、なるほど一本五百円でもしょうがないかなあと思わせる上質な出来映えです。人生賭けてないだろうと思わせるお兄ちゃんが焼いていても、あれぐらいのものができるのです。日本は、サツマイモを焼かせれば世界一の国なんですね。

 徳島の鳴門金時なんて、お歳暮で贈るような芋ですよ。ぶわっと割った時に輪郭のあたりが透けて見えるような黄金の土の精。その甘さたるや、柔らかさが先にあって甘いのか、甘くて柔らかいから食べているうちに溶けるような心持ちになってくるのか、そのあたりの感覚の順番に関してはよくわかりませんが、とにかく一瞬にしろ、幸福というのはこういう具体的な形を取ることもあるのだ、と納得させてしまう焼き芋なのです。

 ですから、あなたが焼き芋を食べているからといって、「あの人、何だろう」と思う人はどこにもいません。いい匂いがしてきて、それが誰かの食べている焼き芋だと気付いた時にはみんなから羨ましがられるだけでしょう。自慢したっていいぐらいだよ。コーヒーを売りにくるお姉さんに「焼き芋と合う飲み物あるかしら」と聞こえるように言ってもいいぐらいなのです。ましてや、お母さんが持たせてくれた焼き芋でしょう。お母さんがいるということだけで幸せじゃないですか。「まだボケてもいない母が持たせてくれた焼き芋と合う飲み物あるかしら」と、こんなふうにコーヒーのお姉さんに聞いてみればいいのです。もちろんそんなふうに聞くと、ちょっと身構えられるかもしれませんが、向こうは向こうで後でキャーキャー騒ぐネタが出来たりするわけですから、それでいいのです。

 と、来れば、次の間違いは、あなたが新幹線をよそ行きの場だと勘違いしている点。
 たしかに我々が子供の頃は、新幹線というのは特別な乗り物でした。私なんかは日曜日に父親に連れられて新幹線を見に行ったぐらいですから。今思えば有楽町あたりのガードですよ。そこでボーッと親子で新幹線が通るのを待っているわけね。待ってればくるんです。ばーっと高架の上を通っていく。まだ有楽町だからスピードが全然出てなくて、横を走っている山手線と大して変わらないんですが、「あー、新幹線だ!」とまあ、私が甲高い声を出しまして、で、父親が「うん、新幹線だなあ」と。で、また待っていると「あー、新幹線だ!」と。それでまあ父親が「うん、新幹線だなあ」と、こう繰り返されるわけです。

 その時代を知っている人というのは、あれですよ、「巨人の星」をオンタイムで見ていたあたりの年齢の人ですかね。「アタックNo,1」とか。その頃子供だった人は、新幹線と聞くと、やはりどうしても「運転手になりたい」と反射神経で答えてしまう。それぐらい新幹線に対しては突っ込んだ気持ちがあるものなんです。だいたい私の父親なんかも「新幹線というのは国鉄の一握りのエリートだけが乗務できるんだよ」なんて間違っていたことを言っていたわけです。(カーッ、国鉄)
 その、何だ、鉄道関係にしろ、警察関係にしろ、エリートというのは現場なんかにはいないということを知ったのは大人になってからですから、子供の頃はとにかく偉い人が運転していると思っている。アポロのアストロノーツだって新幹線は動かせまいと思うぐらいです。

 それがあなた。どうもよくよく聞いてみれば、山手線の運転手も新幹線の運転手も免許はそう変わらないそうじゃないですか。むしろ田端だの新大久保だの止まる駅が多い分、山手線の方が難しいんじゃないかって。新幹線では事件もありましたもんね。運転手がコーヒーを売っているお姉さんを膝に乗せて走ったという事件。私なんかは個人的に、膝に乗せていただけじゃないだろうと思うのですよ。膝に乗せてそれだけってことは、これはコーヒー売っているお姉さんにも失礼な話です。絶対違うな。そうじゃないな、と。両手も股間も自由なわけですから。飛行機と違って横に副操縦士がいるわけじゃないし。言ってみれば歌舞伎町の個室喫茶と変わらないわけですよ。

 目の前はばーっと、時速250キロで迫りくる、なんちゅうかこう、線路です。
 その線路を二人で見ながら両手も股間も自由なわけです。
 それだって新幹線はコンピュータ制御ですから勝手に進んでいく。
 もともと線路が敷かれた上を進むわけだから右左に曲がる心配もない。

 なんだ。それでいいのかと。簡単じゃないかと。
 99円ショップの前でいつもひなたぼっこしている猫でも良かったんだと。
 ピンポンパンポーンとアナウンスの合図があった後、「ニャンニャニャニャーン」と聞こえてきても、まあ、コンピュータが動かしているんだからいいかと、乗客も納得するというものです。
 もはやそういう乗り物で、東北から九州までドーンと走っているありふれた列車なわけですから、焼き芋だろうが塩辛のっけたご飯だろうが、家にいるような気持ちで安心して食べていればいいんですよ。

 もうひとつの勘違いはね。
 自分のことを恥ずかしいと思う人の特性なんだけれど。
 あなたは「自分はいつも注目されている」と潜在的に意識しているから、恥ずかしいわけ。
 でもね、なたたが他人のことをそれほど注意して見ていないのと同じで、他人様もあなたのことをそれほど気をつけて見ているわけじゃないんですよ。人間なんて、ただ歩いている座っている食っているというレベルではただの景色の一部なんです。

 人間が注目を浴びるのは、言動にしても、文字面にしても、その人の作品、というレベルに達してからです。街角でどんなに流行の服に身を包んだ人とすれ違っても、一瞬の記憶でその姿は消えてしまうでしょう。でも、琴線に触れるような音楽や文章というものはある。それは作品だからですよ。人は作品によってその価値を判断されるのです。

 だから逆に言えば、あなたはまっとうに恥ずかしがるために、「ああ、もう新幹線の中で芋を食べるのは本当に恥ずかしいわ」としみじみ思い、そのことをもって人生の味わいと化するために、芋の頬ばり方を作品化する義務があります。
 
 ・無理やり鼻に入れてみる。
 ・縦ではなく、横に頬ばって、文字通り頬を限界まで伸ばしてみる。
 ・芋の可能性を最大限まで生かして歌いながら食う。(野菜で楽器を作っている変な人がいます。参考までに)
  http://jp.youtube.com/watch?v=_GabHGlGm14(アクセスできない場合は「野菜楽器」と「小山」で検索して)

 など、色々と方法はあるはずです。

 旅路では一刻一刻が人生の珠玉の時。
 寸分も無駄にせぬよう、恥ずかしいなら恥ずかしいで思い切りのいいことをやってみて下さい。

(編集部より)
 夕陽新聞相談室では、皆様からのお悩み、斬新な意見などを募集しております。
 だいたい、一週間に一回程度、回答をここに提示する予定でおります。
 なお、投稿内容は自由ですが、できれば400字程度にまとめて下さい。
 あまり長いものは読んでいる間に寝てしまいます。

 なお、夕陽新聞に掲載された皆様からのお便りは、皆様のものであるとともに、その編集権を夕陽新聞が管理いたします。
 投稿ポストの差し込み口はこの真下にあります。皆様からのお便り、気長にお待ちしています。

     お便りはここから

 

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