ドーランが目にしみる 2009年10月 |
| 10月31日(土曜日) 短い尺で何組かが出演するライブは、 お客さんが集まりにくいという現実はあるものの、 出演者にとってメリットになることもある。 それは、各出演者が対バン相手の演奏や歌を知り、 「へー、君たちはそういうスタイルでそういうことをやっているんだ」と 互いに自己紹介をし合う場になることである。 昨日はボクらの後に出たバンドのドラムスが 元ブルーハーツのカジ君で、 むちゃくちゃ久しぶりに顔を合わせたこともあり、 「いやー、まだこんなことをやっているんですよ」と挨拶をすることになった。 なんか、趣味のプラモ屋でいい大人どうしがばったり会ってしまった時のような気恥ずかしさをたたえながら。 「歌う道化師が必要な時は言ってね」と営業をかけると、「いいの?」と明るい笑顔で応えてくれたが、あんまり必要ではないだろうな。 それからこういう形式のライブだと、 それぞれの出演者を見にいらしたお客さんが他の出演者も見ることになり、 「これ、好きかも」と思ってくれるチャンスがないとは限らない。 文芸雑誌一冊で色々な作家の小説を読めるのと同じことで、 小池真理子さんを読もうと思ってついついねじめ正一さんも読んでしまうように、 あるいはねじめ正一さんを読もうと思ってついつい小池真理子さんを読んでしまうように、 カジ君の太鼓を聴きにきて、ボクらのことも興味をもってくれる、 という連鎖が・・・まあ、昨日はなにも起きなかったのですが、 今後ないとは限りませんし。 というわけで、 ライブハウスは椅子がなくてお客さんにはあまり楽な場所ではない、 そもそもお客さんじたいが集まりにくい形式のイベントが多い、 という要素はありつつも、 今後も出る時は出ますので、 今日の夜はなんだかモンワリしているわ・・・とうつむきがちな時はまた皆さんいらして下さい。 昨日はお客さんとして「はんぺんブラザース」も来てくれました。 来年また「はんぺん」の二人とはジョイントライブをしたいと思っています。 |
10月30日(金曜日) 短い尺のライブだっただけにあまりお客さんは多くなくて。 (長い尺でも多くはないのだが) とはいえ、 いつもいらしてくださる皆さんがあたたかな眼差しで 支えてくれているのはわかった。 わずか35分のために足を運んでいただいた皆さん、 本当にありがとうございます。 ドーランが目にしみて、至近距離でもだれがだれなのかはわかりません。 しかしなんとなく雰囲気で、 あ、ここに誰々さんがいる・・・と目の端でとらえながらの歌唱です。 お客さんの雰囲気で名字までわかるようになってしまって。 いいんだか悪いんだか。 どうしたらいいでしょうね、ボクら。 続けていくことは続けていくのだし、 ひとつひとつのステージを丁寧にやっていくことしか考えていません。 でも、お客さんを増やすという方程式に関しては、 解法がわかりません。 これは本も同じことで、悩み深いところです。 ひとつの解法は、続けていくこと。 それだけはわかります。 今日のライブは亡くなったいのさんのお母様がみえました。 いのさんの遺影を携えてのライブ参加でした。 お母様、ありがとうございました。 |
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10月24日(土曜日) 言葉を求めて生きていく。 言葉を置いて、つなげて、時間と空間を作っていく。 言葉で詩を書く。歌を作る。物語を構築する。 言葉のために肉体も鍛える。 語れるようにするし、歌えるようにする。 それがボクの仕事だし、生きていくよすがだと思っている。 クッキーひとつ差し上げるのも言葉を添えなければ納得できない。 でも、今はビジュアルの時代で、 言葉よりもぱっと見てわかるもの、 目で惹き付けられるものの方に人は動く。 美辞麗句なんてとっくの昔に滅んでいて、 もちろんボクもそんなものを追い掛けようとは思わず、 ただ、言葉で未知の瞬間をこしらえていきたいだけなのだけれど、 とにかく言葉は今あまり大切にされていないし、 時には侮蔑さえ受けるし、 言葉を使う人も含めて、あまり評判がよくないのだ。 しかし・・・叫ぶ詩人の会がデビューした時の 『言葉の復権』という大テーマは色褪せることなく ボクの日々を貫いている。 一時はそれを忘れて、 様々な可能性を試してみようと思ったことも確かだ。 ブレブレの大ブレでブレてみて、 名前さえ変えてボクは家出した。 それでもやはり、ここにもどってきてしまう。 ブレた幅だけ執着が強くなっている。 言葉の森で、珍獣や宝石を探していく。 時にはうっすらと紫の霧になって漂う林間の息吹に 自分の手をそっとかざしてみる。 ああ、もどってきてしまった。 そして疑いもなくこの道が、 ボクの歩む道である。 ずいぶんと遅く、不惑。 |
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| 10月20日(火曜日) ヴォイストレーニングの先生の前で歌っていて、 「流れ」という意識をまた今日も指摘された。 歌う時、ボクは大きなシャボン玉のなかに入って 内側からその膜を転がすようなイメージで 呼気を出し、空間を愛撫している。 しかし今日は、「流れ」のひとことで水の煌きが現われた。 川、というよりは英語でいうところのSTREAM。 早い瀬があり、ゆったりとした淵があり、 魚たちが青い背を俊敏に見せつけて飛んでいった。 歌がこれなら、 言葉も音もその命として水滴を持つのだろう。 ひとつまた新しい世界に入ったようで、 言語がみずみずしく目の前で躍る。 |
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10月17日(土曜日) 東京アートミュージアム(仙川)で楢橋朝子さんの写真展。 「近付いては遠ざかる」 写真展なのだから、当然撮影は禁止なのだが、 このところのくせで、ついついカメラを鞄に入れてしまう。 楢橋さんの写真は いつも海や湖が底辺から押し上げるようにたゆたっていて、 都市や人は、 その膨らんだり窪んだり溢れたりする線の上にかろうじて立っている。 フォーカスが絞られているのはその上物の方で、 支えている水、 形を変える世界の底はどの写真もぼんやりとしている。 なにやらとっぴょうしもない無気味さが漂うのは、 土台というものの頼り無さを、本当はボクら自身も知っているからか。 ボクらが今ここにいることの一瞬性、不安定さというものは そのまま言葉にされてしまうと、 「言われなくても」と短気な反応になるだけ。 でも、それをこんな形で見せられると、 拒絶のさらに下にある共感のようなものが込み上げてくる。 言葉を生業とする人間だからこそ、 言葉以外の言語で表現している人達を 言葉のまな板に乗せていこうと思う。 感性のトレーニングをやっていきます。 読者の皆さん、おつきあいください。 |
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| 10月3日(土曜日) オリンピックを東京で。 と望んでいた人、残念でした。 でもボクはそもそも、 なぜ東京なのか、という意味がわからなかった。 リオの人たちが南米初のオリンピックだと あんなに喜んでいる。 あの人たちをがっかりさせてまで、 東京で無理やりオリンピックをやる必要があったとは思えない。 環境オリンピックというのをキーワードにしていたが、 環境を考えるのなら、 智恵を絞るべきはまず森や川や海に対してであって、 野山を切りくずした会場をゴミだらけにするコンサートや 自動車メーカーまでが環境を謳うのと同じぐらい 座りの悪い、妙な言葉だった。 旧与党財界よりの大新聞が はや2020年オリンピックを東京で、と唱え始めた。 今回の敗因は、 国民が盛り上がらなかったことが反省材料、としている。 我々国民のせいにされてしまった。 大丈夫か、編集委員の頭。 民衆はそんなにバカではない。 ものを見据えた上で、 客観的な疑問を抱いた人が多かったのはごく自然なことだ。 国民のせいにする視線があるのなら、 今回の無理矢理な招致運動で消えた 多額の血税。 その責任をなぜ問わないだろう。 公金注ぎ込んでいる銀行の問題も含め、 差別発言やまぬ都知事の 「オレの夢」 その溜飲のために消えたみんなの税金。 今、楽をして税金を払っている人は誰もいないというのに。 いいではないか。リオで。 「リオを目指せ」の方が選手も盛り上がるよね。 「東京を目指せ」では、都民としてはちょっと・・・。 再建中の日航も 南米路線から退却という現案を考え直すかもしれない。 国をあげての大きなイベントは いろいろと利害が絡むからシンプルなことは言いにくいのだけれど、 世界全体に咲く花を考えれば、 やはり普通に考えてリオなのでした。 ピースボートより安い値段の、 貨客船の大平洋就航を望む。 南米まで船で! リオ(大西洋側)まではバスで! |
10月2日(金曜日) 雨の飛沫が アスファルトの上で無数に煌めいている。 君やボクの これまでの断片。 その連続のように。 |
| 10月1日(木曜日) いつだったか、終わらせる発想というのを ここで書いたような気がする。 語学の努力者、千田栄一さん(チェコ語の権威)が その国の日常会話の9割のボキャブラリーを達成したら、 それでひとまず単語を暗記するのは止めにしておいた方が 精神衛生上いい、と記されているのを読み、 なるほどと思ったことがある。 終止する場所を決定し、休憩を自分に与えるのだ。 日常会話の9割の単語。 日本語なら1万語前後。 フランス語で3000前後だそうだ。 (ただし活用があります) でも最近、終わらせない発想というのもありだなと思い直している。 我々の大脳は未知に触れるからこそ息づくことができる。 毎日同じものを食べ、同じ景色を観させ、同じ会話をさせたら、 その人は一年ももたずに錆び付いていくだろう。 塀のなかにいる人達がそれでもぼけないのは、 シャバを思い、イメージする心があるからである。 イメージ。 なんて素敵なことだろう。 なんて力強い人間の力だろう。 あらゆる可能性がそこに眠っている。 八十代の人が、チェコ語を始めたとして、 ボクはそこに無意味さはひとつも見出せない。 役に立たないのでは、とか 今さら飛行機にも乗れないでしょう、 などと言ってしまう人は、 実は自分の人生の可能性を切り捨てていることに気付いていない。 死の当日までイメージすること。 正岡子規が絶筆三句を残したように。 |
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