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ドーランが目にしみる 2009年9月
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そうだ。 |
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他の船や荷物のことなんて俺は知らない 激しい飛沫と渦巻く潮を越え コルクよりも軽く、俺は波の上でぐるぐる回った 子供たちの好きな甘酸っぱい果物よりも甘い、緑色の水が 今俺は、詩の海ってやつを漂い、流れていく 海の唐突な青を褐色に染め、ゆっくりとした音が 俺は見た 稲妻が空をぶっち切るのを 俺は夢を見た 緑の夜に雪の輝き 何ヶ月にもわたって俺は押し寄せる波を見た 氷河 銀色の太陽 真珠の波 激しく燃える空 青い波 歌う金色の魚 時には、極地の旅の殉教者である俺を まるで島にいるようだ 俺は船の釣り合いを保つ ああ 俺は今 渦巻くガレキのなかの小さな迷い船 自由に舞い上がり 紫の煙を吐き 俺はカバの群れの中で転がる迷子の小枝 分厚い渦のなかで発情しているベヘモス 俺は星々のなかで島々を見て来た たしかに俺は充分に泣いた 愛は俺を焼き 俺は腫れ上がって麻痺していく 海よ お前のけだるさにどっぷりとひたり |
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夏の青い夕暮れ時に 俺は小道を歩いていこう ものを言わず ものを思わず |
9月27日(日) 断酒25日目 アトリエに泊まり込み、 アルチュール・ランボーの英訳からの日本語訳を試みる。 伝言ゲームみたいなもので、 ボクの訳したものと堀口大学訳、小林秀雄訳などを比べると あまりに違っていて愕然とする。 (この二人もかなり違う) でもそれはボクの翻訳力というより 米国の翻訳者の方に問題があるのかもしれず・・・ たとえば、下記『我が放浪』の「ワインの雫」という部分、 堀口大学訳では「養命酒」となっていて、 時間がたち過ぎているという意味で、 やはり堀口さんを今使うのは無理があるなと思うのだが、 英訳だとワインも酒も出てこず、 ただ雫をなめた、「lick」という表現のみで終わっている。 ところが邦訳を三種類ほど比較してみても、 「なめた」は出てこず、 つまりランボーの原稿にはその表現がないらしい。 うーん・・・これはとんでもないところに踏み入ってしまったぞ。 「日本人の翻訳者も米国の翻訳者も意訳してんじゃねえ?」 という素朴な疑問を抱きつつ、 自分もたぶんにそのきらいがあるので、なんとも言えず、 仏語ができればびしっと原文から訳せるのにねえ。 とにかく今回は難物です。 米国経由でぼやけている上、 ボク色のランボーになってるいるため、 仏語堪能な方には笑止千万なことになっている可能性があります。 でも、敢えて宣言した以上、 英語版ランボーを中心に詩を再構成するという方法でいきますね。 (英語版でも韻を踏ませる努力は放棄しているため、 日本語でもやりません。っていうか、できるのか?) さて、いつものアルルカン洋菓子店と違って、 今回は一度聴いただけではわからないような 難解な詩『酔っぱらい船』に挑戦します。 なので、すでにこのサイトで、 10月12日(仙川KICK BACK CAFE) で朗読予定のランボーの詩を公表していきます。 ライブにいらっしゃる方、 これがどんなふうに読まれるのかを想像しながら、 アルチュール・ランボー16才の世界観を膨らませておいてください。 アルチュール・ランボー→ポール・シュミッド→明川哲也 「我が放浪」(ランボー16才) 俺は歩いた 破れたポケットに両手を突っ込んで 外套も穴だらけで幽霊みたいだった 俺は歩いた 大空の下を 詩の神ミューズを道案内にして ああ、なんという愛の奇跡を俺は夢見たことだろう 一張羅のズボンにも大きな穴が開いていた 俺は夢見る親指小僧のように道々詩に韻を踏ませた 今夜の宿は大熊座 頭上の星々は空いっぱいに衣擦れの音をさせた 道端の石に腰掛けて 俺は星々のささやきに聴き入った 9月の素敵な夜だ 夜露がワインの雫となって俺の額に落ちてきた 俺は真っ暗な奇怪な場所で、詩の韻を踏むのに夢中になっていた 竪琴を弾くように、ぼろ靴のひもをつまびいて 片足は胸の下に抱いて |
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9月25日(金) 断酒23日目 逗子は小坪港の鮎丸。 鮎丸の鮎はきっと、船長の娘さんの鮎美さんの鮎の字だ。 もう十五年も前、 ボクがまだ叫ぶ詩人の会というグループでマンスリーライブをやっていた頃、 高校生だったこのお嬢さんがよく来てくださり、 それがきっかけで鮎丸にのせていただくようになった。 断酒中ではあるが、 今日は日本が誇る世界の天才(こんな表現しかできなくてスマンです) サクラヤスユキ画伯などと鮎丸にのせていただき、 主に巨大サバとの格闘、 そして港にもどってからはメジマグロやイナダとの格闘になったのであるが、 船尾灯がやさしく照らす港の宴会場(『老人と海』の小屋を想像してください)で、 酔う人は酔う、語る人は語る、ちゃかす人はちゃかすなどしていると、 本当に久々に・・・お嬢さんが現われたのであった。 船長、 お嬢さん、美しい女性に成長されましたね。 はしゃがない感じの、しっとりとされた方。 時は流れた。 なにもかもが変わっていく。 女子高生は湘南の優雅な女性になり、 鮎丸はだんだん船が大きくなり、 その船に乗るメンバーも徐々に顔ぶれが変わり、 麻布十番のナポリタンのおいしいお店は駐車場になり、 一度疲れ、壊れたボクは再生しようとしている。 その予感があるなかでのお嬢さんとの再会。 時は流れる。 しかし・・・それでいいのだ、と思った。 |
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ボクがあそこで店をやっていても、
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9月22日(火) 断酒20日目 昨日は宮沢賢治の命日だった。 ダムの水を調節して、イギリス海岸が顔を出した。 ボクらが訪れた時は、水没していた。 その前に訪ねた時も、水没していた。 さらにその前に訪ねた時も、水没していた。 お上がくれた連休だ。 進まない小説と向かい合っている。 なぜ進まないのか。 連休のずっと前から連休だからだ。 区切られた休みであれば丁々発止やりあえただろう。 今日、エネルギーが切れたことを知る。 羽根蟻たちがアトリエの中を飛び回っている。 渦はサラダに落ちてきて、 モロヘイヤの葉っぱの上でもがいている。 そっと取り除くと、 羽根を机につけたままもがき、 絶命した。 今日はちっちゃなドンキホーテの命日となった。 |
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滋賀県のノコギリ演奏家、稲山訓央さんの尽力により、 |
9月19日(土) 断酒17日目 何年も前にいただいたキューバ産のトマトの種を 今年も梅雨時に蒔いたのだけれど、 さすがに仕込みが遅過ぎたのか、 あるいはもう年数がたち過ぎていたのか、 数十の穴ぼこに埋めた種は押し黙ったままで、 トマトはたった一本しか発芽しなかった。 その一本は今、高さ五十センチぐらいにまで成長し、 でも、それ以上は伸びず、花もつけず、 そのまま秋を迎えようとしている。 ずらりと並んだ鉢は、トマトに関しては空振り。 土のままただ置いておかれ、 そのうち雑草たちのサンクチャアリとなった。 意外とこちらの方が面白く、 名を知らぬ彼女たちは、 けなげな花をつけたり、 面白い葉っぱを揺らせたり、 テントウムシのつがいを載せたりして、 つくづく雑草というやつは奥が深いと思う。 キューバトマトの一本、 枯らさないために毎日水を撒き、 それでもいつか花をつけるのかなと やはりどこかに期待はある。 (東北に歌いに行っている時、水のことを考えていました) しかし実際は、 雑草たちが見せる日々の千変万化に目がいってしまうわけで、 こちらにも当然水をやりつつ、 この過ぎ行く季節、彼女等は豊かだったなと思う。 種を蒔く必要なんかなかったんだね。 雑草だと軽んじない目があれば、 虹彩も珠玉も、すべて勝手に現われてくれる。 不器用な自分にはそれがちょうどいい。 ボクにできることは、 毎日二、三百人の皆さんが観てくれるこのサイトに (アルルカンのサイトも御覧あれ) つたない言葉の明滅を書き込むこと、 それから、 いっしょに頁を作りたいと思ってくれる編集者と、 その一頁一頁を生み出していくこと。 そしてたまに歌を作り、 あなたの前で歌うことぐらいだ。 もはや大観衆は我の前になく、 ぽつんと立っている自分を その最後の姿まで想像して観ていることも多い。 でも、この鉢はそう簡単に不毛の土には戻らない。 未知の花をそっと咲かせてみせよう。 そしてあなたの喉元に らりるれろと舌を這わそう。 |
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9月16日(水) 断酒14日目 いつかサッカーボールを蹴るんだと思って 空き缶を蹴っていた日々。 それは練習に過ぎなくて、 だから空き缶が鳥を打つぐらい高く飛んでも、 弾道計算したくなるような放物線を描いても、 あるいはくるりとひっくり返って鎮座ましましても、 いつかやってくる日の予行演習として ボクも空き缶も存在していた。 でも、どうやらそれは違ったようだ。 ボクは空き缶を蹴るために生まれてきたのだと、 最近よくわかる。 実は毎日が本番で、本物で、本当で、 この一時間、この一分の中にしかボクはいなかった。 ここで、「キミもね」 なんて言う気はしない。 人にはそれぞれフィールドやピッチがあり、 きちんとサッカーボールを用意されている人もいれば、 それを観ているだけで満足する人もいる。 だから、それぞれの本当は、みな、本当に違うのだ。 たとえば、今この一行だって、 ボクにとってはもうすっかり、本当のことだ。 電線から落ちる雫。 水素がたくさん詰まっている。 きらりと光った時、 輝きはどこを抜けた? それぐらい本当のことだ。 |
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誰かは知らないが、ありがとう。 |
9月14日(月) 断酒12日目 舞台に上がった時だけ歌い手。 そんなの、あり得ない。 毎日どこかで歌を意識し、実際に歌っていなければ 舞台の上で歌うことなど不可能だ。 原稿やキーボードに向かった時だけ言葉を綴る。 そんなの、あり得ない。 風の一吹き、木漏れ日の揺らぎ、刺すような視線、 あきらめた路面、肉のようなにおい、 その瞬間その瞬間に未知と出会っていなければ 切り取ることも、増幅も不可能だ。 文字や歌であらわれるのは 常日頃の神経である。 仮に努力という言葉を置いてみても、 なにかそれはとても座りが悪くて、 そういうことではないのだな、という気がする。 視線だったり、聴覚だったり。 おそらくはこっちの方であろう。 雲がひりひりしたものを抱えたまま霧散しようとしている。 その航跡に我もまた散っていく。 |
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9月12日(土) 断酒10日目 花巻、大迫町でライブ。 ごめんなさい。 辿り着くまでこの町を知らなかったのだが、 花巻市街からは丘や川や森や線路をずいぶんと通り越え、 けっこう離れたところに来ちゃったなあ、 というのが率直な感想の丘陵地帯。 (関東や新潟からいらした皆さん、御苦労様です) 葡萄とワインの名産地。 早池峰山の山影も近いのかな。 お寺の若い住職さんらが中心になり、 この町の活性化のための第一弾として アルルカン洋菓子店を招待していただいた。 (岩手日報の一面に出ていたよ!) 差し入れに葡萄をいただいたり、 お客さんのために住職さんらが焼そばを作ったりと、 手作り舞台の雰囲気があちらこちらにありました。 そして我々は翌日行われる予定だという 早池峰神楽の迫り舞台の上での演奏、歌となったのだが、 ほぼすべてのお客さんが初めてのアルルカン体験とあって、 どんなふうに受け止めていただいたかは、 これまた未知数。 でも、拍手はずっと続いていたし、 CDや本の販売の列にもたくさんの方が並んで下さった。 ありがたい。 クッキーと一緒にお渡ししているメッセージカード。 尼僧の方が微笑まれながらカードを見せて下さった。 「私、こんなのがきちゃって」 と、そこには・・・。 『髪型が正直過ぎます』 盛岡で、大迫町の若手の皆さんと打ち上げになった。 一人の住職は高校生の頃、 ボクのラジオの深夜放送を聴いてくれていたらしい。 みんな大人になっちゃったなあ。 なれていないのはこのアルルカン一人。 (もう一人のアルルカン。あれは大人です) |
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(と書いたのが東京を発つ直前、ライブ三連戦とあって、
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9月10日(木) 断酒8日目 新刊の感想をかなりの勢いでいただいている。 読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございます。 お客さんがいなければライブができないのといっしょで、 読者がいなければ本は成立しない。 宮沢賢治の孤独は 未来の読者がいようがいまいが、 まず作者自らの律動によって 作品が(幻灯の輪の中のみに)生まれ、 それを読む者がいない状況で推敲ばかりが重ねられた状況だと、 なにかの評論で読んだことがある。 おそらくは多くの作家にとって、 この原点は共通する。 でも、それが続くことは想像するだに辛い。 羅須地人協会で彼は読み聞かせもしたが、 ほとんどの作品は彼の生と寄り添うのみで、 外側への開闢を持たなかった。 つながりを断たれた作品。 氷雪の中で眠る童貞の彫刻のようだ。 でも、だからこそ己の幻灯の中で 完璧なる自由を謳歌できた、その命の羽撃き。 我々が宮沢賢治作品の時代を越えた垂直性に感動するのは、 この絶対的な孤独があってこそである。 とはいえ、 誰も読んでくれない物語や、 誰も聴いてくれない歌を産出し続けることは 絶海に独り海胆の針を数えるにも似て、辛い。 |
9月9日(水) 断酒7日目 立原道造は夭折しなかったら、 四十代の後半とか、なにをしていただろう。 ランボーが十代ですべての作品を書き上げ、 その後砂漠の商人になってしまった気持ちは なんとなく、わかる。 なにもかもが、無理をしてやるべきことではないだろう。 溢れる時、自然とそこからこぼれ出る時、 文字は血や虹を吸い込みながら命あるものとしてそこに咲く。 そして、詩的な力は時に文字を越え、 その実践者を求めることがある。 アルルカンになったのも、 クッキーを焼いているのも、 それはすべてイメージの輪郭にまつわる冒険。 あ、そういえば・・・ |
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立派な卒業証書をいただきました。 通信教育だから緩いよね、 と思ったらつまずくほどの大間違い。 実習などのスクーリングが200時間あって、 夏冬がほぼ投入された感の二年間でした。 このアトリエも クリームの匂いに何度呑まれたことでしょう。 深酒して、かなりの二日酔いで実習に参加し、 朝9時からモンブランを作り上げた日。 二子玉川の空は葡萄よりも青かった。 |
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もし良かったら、手に取って数頁読んでみてください。 |
9月7日(月) 断酒5日目 お山を耕して、 段々畑を作って、 そこに苗を植えて まじめに世話をして、 風の日は空を睨み、 雨が続けば手で空を斬り、 炎暑の中では馬鹿みたいに水を運んで、 そうして育てても、 地滑りが起きて何かもが崩れさることはある。 民事再生法申請。 来月出ると告知した『トンネル3』。 版元の倒産により、流れるようです。 昨年からの創作や労働、 二冊続けてなので空が割れました。 でも・・・。 またお山を探そう。 また段々畑を作ろう。 そこに苗を植えよう。 |
9月6日(日) 断酒4日目 炎熱の環が、 道を囲むようにゆらゆらと回りながら抜けていき、 今、畑では農夫がトマトを摘み入れ、 校舎では歌がよみがえり、 空には澄んだ青があふれ、 古い靴のままのボクは 詩のようなものを探している。 トンボが二匹、互いに羽根をぶつけ合いながら 電線の間を器用に飛んでいく。 トマトの後には何が植えられるのだろう。 葱? では、葱が育った冬の畑を見た時、 ボクはそこにトマトがあったことを思い出せるだろうか。 中学生たちは、雨の日も風の日も教室で歌うだろう。 でも、二学期の終わりに、 夏休み明けに歌った曲のワンフレーズを、 あるいはハーモニーが崩れながら終止したことで 音楽の先生が変な顔をしたことを思い出せるだろうか。 空には澄んだ青があふれ、 一歩ずつ歳をとっていくボクは 詩のようなものを探している。 今日という日の模索と栄光を ボクは冬の或る日の午後に、 窓辺の煌めきのかけらとして そこに見ることができるだろうか。 |
9月5日(土) 断酒3日目 小さな部屋の中を旅している感じだ。 普通、ではない。 たとえばこの覚醒感というのは、 頭が冴えてきりきりとものの奥が見えるような 神経の透明性をともなった眺望能力とは無縁で、 ただだるく、疲れがたまっていて、 それでいて眠れない白夜のバスケットボール選手といった風で、 (ゴールポストの位置さえわからなくなっている) 身体だけを持て余して『漠然なる王』と向かいあっている感がある。 2、3日酒を呑まないなんて幾らでもあるし、 何年か前に半年ほど断ったこともあるので、 断酒を軽く見ていた。 でも、これまでとちょっと違う。 かなりの部分で酒がボクの普通を支えてくれていたようで、 簡単に言ってしまえば、 本当にそれだけの小説を書き上げる間呑まないのか、 という自問自答から始まる恐怖が、 普段なら姿を現わさない部分までの禁断症状 を炙り出し始めたのかもしれない。 つまりこれも一種の、 依存症の症状です。 呑んでいないから頭がおかしくなり、 薄皮一枚下の変態性があらわになり、 なにごともやり過ぎたランボー少年の詩などどマッチして 普段よりもぐいぐい食い込んでくるから 極端は純に通じる、という言葉をあらためて確認できる。 ランボー少年がヴェルレーヌの肛門を突き、 (彼は同性愛の時はタチであったらしい) 女性の肛門を虫眼鏡で見るように描写して『ミューズ』と題するなら、 ボクは色々な街の街路樹に裸でよじのぼり、 街路を歩く年上の女性たちを見ながら 手淫、手淫、手淫の炎と化し、そこに白き火炎樹の花を咲かせたい。 密度が壁を破壊しだした。 こなくそ我慢の大気が毛穴から噴き出し、 智恵さえも煽り始めた。 |
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